16/07/2014

by lumi on 07/16/2014

 

The Burning House(Link)というブログがとても好きだ。自宅が燃えていたら何を持ち出すかという不吉きわまりないコンセプトだけれど、さまざまな場所に住むさまざまな人の大切なものがそこにある。“It’s a conflict between what’s practical, valuable and sentimental.” まさに、と思う。非現実的なものも、誰かに見せるために作っているだろうものもあるけれど、それでも自分(または、他人からそう見えてほしい自分)にとって大事だと各々が思っているなにかの集積というのは、なかなか壮観だ。

 

それで、わたしなら何を持ち出すだろうかと考えた。腕時計とコンパクトとペンダント(どれも、とても古いものだ)はわたしにとってはただの物の範疇を超えた存在で、もうお守りに近い。フィルムカメラには10年分の愛着があるので、とても置いていけない。2冊の旅行記(カール・フォン・リンネのダーラナの旅と、村上春樹『遠い太鼓』)は思い出込みで特別なもので机のうえにいつも置いてあるから、きっと10秒猶予があれば持って出てしまう。それと、眼鏡。ないと困るというか、たぶん逃げられない。あとは、ここには写っていないけれどできればiPhoneとラップトップ。データはやっぱりちょっと惜しい。ないならないで良いんだけど、きっと。

 

 

こうして挙げてみてわかったけれど、わたしはいざとなると実用的なものにきっと興味がない。財布やパスポートは探しもしないだろうし、データを失うとしても最悪電子機器は置いていく。高価なものも、このカメラが手持ちのものでおそらく一番なので考えない(ちなみにわたしの母はいざとなったら着物を担いで逃げると言ったので、まずは命を大切にするよう諭しておいた)。正直自分がこんなにセンチメンタルな人間だとは思わなかった。カメラとか、身につけるものとか、どう考えても鏡以外には使い道のない古いコンパクト(!)が、いちばん大切だなんて。

 

子供の頃、ひまわりのイヤリングや、つるりとした鉱石、太陽系惑星の情報を書き込んだノートなんかを宝箱にいれて大切にしていた。あの頃のわたしはたしかにああいうものでできていたのだ、と思う。ほかにも大切なものは沢山あって、箱になんて入りきらなくて、自分で把握すらできていなくて、それでもあの箱の中身はやっぱりわたしそのものだった気がする。うまく説明できないけどなんていうか、わたしはそういうタイプなんだろう。

 

大人になったいまのわたしを形づくっているのはこの小さなものたちなのかもしれないな、と、思ったり。

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