25/09/14

by lumi on 09/25/2014

 

 

 

わたしが通っていた中学校の裏には、大きな神社と、“糺(ただす)の森”と呼ばれる森がある。

 

中学生の頃は、ここにいることがただ、日常だった。 同級生と遊んだり、写生をしたり、何ともなしにぶらぶらと歩いたり。最近はここで遊んでいる中学生はあまり見かけなくなったけれど、当時は観光の人もいまほどは多くなく、休憩処もなく、自転車で走り回っていてもなにも言われないくらいだったので、本当に好きなだけここで過ごしていた。

 

今年の夏も、神社とその近くを流れる川へ、よく散歩にでかけた。背の高い木が並ぶ参道を歩きながら、そっと中学校の校歌を口ずさむ。“風かおる古き都 雲わたる比叡の峰は”というフレーズではじまる、ゆったりと美しい歌。入学式で聴いて、うわあ、すてきな歌、と感動したことをいまでも覚えている。

 

“真理(まこと)にいたる道遠くとも そびえ立つ山路たどらん”。勇ましい詞だ。

 

 

蜘蛛の糸のような子供時代の記憶をすり抜けて、懐かしさを振り切って、ただ美しいものを拾いあげることができるくらいには、大人になった。たぶん、そういうことだ。

 

神社も森も、流れる川も、比叡の峰も、昔からある喫茶店も、地元のお祭りも、この年齢になってあらためてわたしの一部になったような気がしている。唯一無二のものとして、涸れることのない、不変の故郷として。

 

 

大学の3回生だった頃、2ヶ月という短い期間だけ、web上でメインの日記とは別に毎日細かくメモのようなものを書いていたことがあった。できごと、食べたもの、買ったもの、読んだ本、雑感。ほぼ日手帳ですら重たく感じて続かなかったわたしがどうしてそんなことをやろうと思ったのか、今となってはもうわからない。

 

存在すら忘れていたその日記のことを先月ふと思い出して、しばらくぶりで読み返した。淡々とした、ただの仔細な日常の記録。けれど、大学生だった当時の何気ないあれこれが、過ぎ去った年月を感じさせない、恐ろしいほどの立体感で迫ってきた。たとえるなら初めて3Dメガネをかけたときみたいな驚きだった、本当に飛び出すやん、これ、っていう。

 

それはあまりにも衝撃的な体験で、その後、色々なことを考えた。これだけの情報量がごく普通の日常にあるとしたら、わたしには忘れていっていることがどれくらいあるのか、もう想像もつかない。忘れるのは健康なことだとこれまで信じてきたけれど、本当にそうだろうか、と思った。記憶なんて曖昧なもので、どんどん変わるし消えるし、掬うチャンスなんて一瞬じゃないか。

 

それで、twitterとこの日記の狭間で、またメモのような日記を書いてみたいと思った。日常を掬いつづけるのがいいことなのかは本当はいまでも疑問だけれど、書くことは楽しい。そして、この日々は、もう二度と戻ってはこないのだ。

 

http://d.hatena.ne.jp/lumi31/

 

“I thought the world was going to end this morning.”
“It did, man.”

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