20/02/2014

 

 

 

海と湿原の狭間に現れた蜃気楼のような町、どこまでも続きそうな湿原を行く白い馬。

 

頭のなかでいまも、鳥の声と、馬の蹄の音、草をかきわける音が響いている。

 

 

 

サント・マリー・ド・ラ・メールは果てしなく明るい、美しい町だった。白い壁と褐色の屋根が並ぶ、フランスにスペインの香りが混ざった町。教会の屋根に上ると、南には真っ青な地中海、北には湿原が家々のむこうに広がっている。

 

 

 

 

 

湿原では飛んでいくフラミンゴの群れ、湖を泳ぐビーバー、草地を駆ける馬、色々なものを見た。もうなかなかできないだろう、貴重な経験。正直「白馬に乗って野生のフラミンゴが鳴く声を聴いた」なんてもはや非現実的ですらある(あらためて口にすると、嘘でしょう、って感じだ)。けれどその一方で、あの場所にはなぜだか日常生活の延長のような、穏やかな空気がひっそりとあった。

 

ただ特別というんじゃない、等身大の体験だった、と、思う。

 

 

 

余すところなく美しい風景が、ただ、そこにあったということ。凪いだ思いを過不足なく表現する言葉を、わたしはまだ持っていない。

 

 

 

わたしを乗せてくれた馬は食いしんぼうなうえ怖がりで、美味しそうな草を見つけては食べ、水たまりを見つけては避け、とどこまでものんびりしていた。こらー、しっかりー、といちいち慌てるわたしを横目に、前を行くガイドのお姉さんは馬の背中のうえで煙草をくゆらせ、潔い煙を吐いていた。

 

美しい場所での、美しい一日だった。

31/01/2014

 

自分の長い長い旅の始まりについて考えるとき、浮かんでくる風景がある。

 

リトアニア中部の町、カウナス。両側に店が立ち並ぶ目抜き通りは静かで、誰も歩いていない。日曜でどの店も開いていないからだ。どこまでも明るい空の下、街路樹の葉が風にさわさわ揺れる。振り返ると水色の屋根の聖ミカエル教会。白い建物のうしろから、飛行機雲がまっすぐに伸びていった。

 

 

リトアニアへ行ったのは、2007年7月のこと。切符は片道だった。ちょっとそこまで、という大きさのリュックに、カメラとネガフィルムとペン、ラップトップ、着替えを少しとガイドブックを一冊、それだけを放り込んで家を出た。

 

念願のリトアニアだったはずなのに、旅の経験がまだそれほどなかったわたしは初日でぽっきり心が折れた。道行く人に話しかけても英語はまったく通じずバスやら何やらのアナウンスもすべてリトアニア語。ペットボトルひとつ買うにも慣れない通貨にまごついた。何より驚いたのは、お店の人がまったく言葉を発さず、にこりともしないことだった。今考えてみるとあの辺りの文化では普通のことなのだけれど、何も知らなかったわたしは会う人会う人に、町に、なんとなく拒まれたような気になったのだった。

 

一日ヴィリニュスで過ごしたわたしは、翌日すぐに別の町へ移ることに決めた。行き先はリトアニア第二の都市、カウナス。西の海岸沿いにどうしても行きたい町があり、そこへの中継地点になると思ったからだ。午後いちばんのマイクロバスに飛び乗り、西へ。カウナスに着いたのは午後3時だった。

 

 

その日の宿を探すため、標識にしたがって観光案内所へ向かう。目抜き通りに緑のiマークを見つけ、喜々として近づいていくと、なんと閉まっていた。7月ってもちろんオンシーズンでしょう、しかもまだ3時なのに、と思ってはたと気がつく。今日、日曜だ。ウィンドウの営業時間を見ると、日曜は午後2時までと書いてある。そういえば周りの店も、どこもやっていない。

 

とりあえず木陰のベンチに腰掛け、ぼんやりと考える。これからどうしようか。野宿するわけにもいかないし泊まるところを探さないといけないけれど、周りにホテルらしい看板は見えない。インターネットが使える場所もなさそうだ。誰かに聞こうにもほとんど人が通らないし、だいいち言葉が通じるか怪しい。首都のヴィリニュスでさえ、英語が通じたのは観光案内所の人と、宿の人だけだったのだ。

 

そのとき、前日いちども開かなかったガイドブックがリュックに入っているのを思い出した。ごそごそ取り出して、カウナスのページを探す。三国分なのに薄いそのガイドブックは、リトアニアでは大きな町のはずのカウナスにもほとんどページを割いていない。『泊まる』という欄を見ると、ホテルが七軒載っていた。それでも情報がないよりましだ、と立ち上がる。とりあえず端からあたってみよう。一泊だけだから、どんな宿だったとしてもたぶんなんとかなるだろう。

 

空室は、ここがだめならもう市内中心部から離れたところしかない、どうか空いていてくれ、と祈る気持ちで入った四軒目のホテルでようやく見つかった。聞いてみると値段もそこそこだ。それ以上宿を探し歩く気にはなれなかった。さっそくチェックインして、ベッドに倒れこむ。わたしのちゃちな冒険は、そうしてひとまず終わった。

 

 

ベッドから窓の外を見やると、まだ明るい。せっかくいいお天気なのでホテルを出て、さっきベンチに座って打ちひしがれていた目抜き通りへと戻ることにする。疲れてはいたけれど、体は軽かった。

 

通りにはあいかわらず、ほとんど誰もいない。真ん中に並んで植えられた街路樹が、綺麗に舗装された道に濃い影をつくっていた。強い夏の日差し。振り返ると建物と街路樹のあいだに、聖ミカエル教会の白い壁と水色の屋根が見えた。

 

そして一歩を踏み出したとき、あの、視界がぱあっと広がるような、忘れようのない不思議な感覚に襲われたのだった。周りの景色がぐるりと回って、自分を空高くから眺めているような気がした。限りなく小さくて、限りなく大きな自分。どこへでも行ける、と思った。どこへ行ってもいいのだ、世界は全方位に続いている。実際には制約だらけで限りがあるともちろん解ってはいたけれど、それでもそれは初めて感じる、圧倒的な自由だった。

 

 

あのときどうしてあんな気持ちになれたのか、いまだによくわからない。ちょっとしたピンチを切り抜けたことでハイになっていただけかもしれないなあ、とも思う。けれどその一瞬の感覚は、しっかりとわたしの芯に根をおろした。どこへでも行ける。24年間でつくりあげた小さな世界の外への、最初の一歩。

 

ちなみに、海岸沿いの行きたかった町(クルシュ砂洲にあるニダという町で、トーマス・マンが気に入って避暑に訪れていたというところだ、カウナスからは片道4時間かかる)へは結局行くことができなかった。バスが満員で、切符が買えなかったのだ。結局わたしは西へ行くことをあきらめ、ラトビアを目指して北へ向かうことに決めた。いくら地面が続いていても、自由を手にしていても、どこまでも歩いてゆくというわけにはいかない。あんなに壮大な気持ちになっておいて、可笑しいんだけどね。

 

カウナスでのあの瞬間や、写真の“十字架の丘”での時間を含め、バルト三国の旅での経験はいまのわたしの土台になっている(十字架の丘での写真をここで使ったのは、単純にカウナスでの写真がいま手元にないからなんだけど)。けれどエストニアのタリン以外は再訪することのないまま、気がついたら6年半が過ぎていた。

 

大学生活を終える予定の今年の夏は、もういちどリトアニアとラトビアを旅したいと思っている。出発点は、カウナスの、あの場所にしたい。

22/01/2014

 

好きな花が沢山マーケットに出る季節になった。ミモザ、フリージア、チューリップ、ヒヤシンス、アネモネ、ラナンキュラス、どれも好きなので目移りしてしまう。この季節の花選びは、毎年とくべつ真剣だ。

 

なかでもミモザへ憧れにも執着にも似た気持ちを抱くのは、ボナールが描いた風景を思うからだろうか。

 

 

ロンドンに戻ってきてからの一週間は、ひたすらにエッセイを書いていた。そしてそれを出した日から授業がはじまり、あっという間に一周半。気がついたら今月も後半、というか終わりに差し掛かっている。日本から持ってきた荷物を片づけ終わることができないまま、わたしの生活は静かに回る。

 

目の前のことに集中することで余計な感覚を捨てるようにして、そうして秋が終わって、冬が来た。今度は、麻痺させていた感覚を取り戻さないといけない。そうしないと行き詰まってしまうことが目に見えているからだ。斯くも面倒な自分、まずは乗りこなす体力をつけなければ。

 

 

‘Then at some point I no longer see what I’m reading. At some point there is only my voice in the living room and the light of the sunset from Sydhavnen. And then my voice isn’t even there; it’s just me and the boy. ‘

— from Peter Høeg “Miss Smilla’s Feeling for Snow” (translated from the Danish by F. David)

 

美しいと思うものは、なるだけ仕舞うんじゃなく散らかしていきたい。

 

 

今年のロンドンは、いまのところ暖冬だ。わたしが住んでいるアパートは築100年を超えているうえ(1900年代初頭の、いわゆるエドワーディアンの建物なのであります)セントラルヒーティングも入っていなくてとにかく寒いのでありがたいといえばありがたいのだけれど、なんとなく肩すかしを食らった気分というか、正直ちょっと物足りない。雪が舞う、凍える寒さのロンドンの冬に、なんだかんだ今年も来てほしいのだ。

 

 

愛してやまないこの町での冬、アコースティックギターの音と、霧に浮かぶ明かりのようなエマの声を。

27/12/2013

 

 

何重にも彩りが足されていく街と、独特の高揚感、だれかと会うたび繰り返すメリークリスマス。

 

 

2013年は、正直な話、いい年だとは言えなかった。以前のわたしを支えていたものはほとんど半分が砕け散って、いまは鋭い破片になって降る。結局うまく防御ができないまま目を瞑って耳を塞いで、世界一切を騙してひっそり閉じこもる、そんなわたしからクリスマスは遠かった。

 

それでも、クリスマス当日は穏やかに過ごせたし、そのあいだはそれなりに色々なことを忘れていられた気がする。ふつうの2日間だったけれど、車で神戸まででかけていって、町をぶらぶらしたり、須磨海岸で貝殻を拾い集めたりした。25日には、いいお天気の鴨川を眺めながら、ケーキも食べた。イルミネーションを見なくても、ケーキ以外にはそれらしいものを食べなくても、わたしには特別なクリスマスだった。

 

 

救われたいとは思ってもだれかがわたしを擁護するところを見たいわけじゃない、それならもっと潔くあるべきだ。だれかになにかに振り回されることが多くても、なんでこうなの、なんでそうなの、と文句を言うことをまずはきっぱりやめればいい。結果損が増えるだけだとしたって、些細なことを見たくないと思ったり聞きたくないと思ったり、そんなのはもういいかげん嫌なのだ。

 

迎え撃つ。来るなら来い、2014年。

16/12/2013

 

 

 

 

 

 

 

 

なんとなくロンドンへ来たころのモノクロ写真を見返していたら、止まらなくなった。なんてことない一枚一枚に、できごとが、感情が、蔦のように絡みついている。思い出と呼べるのかわからないそれは月日がたって、枯れるどころか、育っている。

 

 

いろんなことがあった年だった。学生デモ、大雪、ロイヤルウエディング。そのなかで流れつづける日々。自分が撮ったものなのに、遠い。こんなに思いが絡まっている写真なのに遠いなんて、絶望的だ。

 

今でも近いかたちで存在しているものも、もうそこにはないものも、たくさん写っている。写真ってそういうものだ、あたりまえの話だ。けれど、こんなふうに無邪気に過ぎ去ったものを、もう戻らない自分の感覚を突きつけられることになるなんて、なんでだろう、当時は思いもしなかった。

 

わたしはこの頃みたいに、愛情をもって毎日を受け止めているだろうか、今。そんなことを、考えた。

14/12/2013

 

 

 

 

 

町から町へ、ふわふわと漂う。

 

 

はじめての町ではどこかで地図をもらって、一度じっくり見ておいて、なるべく頭に入れてしまう。そうして上を向いて、歩く。遠くになにかが見えたから、そっちに向かう。坂だから、とりあえず下る。そんなことを繰り返しているうちに頭のなかの現在地と実際の自分の場所はずいぶんズレていたりもするけれど、自分がいいのだからそれでいい。

 

ちゃんとしたレストランに入ることはめったにないけれど、公園でベンチに座って食べるごはんは美味しい。贅沢してカフェで飲むコーヒーも、美味しい。スーパーマーケットや偶然見つけたスリフトショップや寂れたお土産物屋さんでまだ見ぬ何かを探すのは、いつだって楽しい。

 

安心してよそものでいるって、なんて身軽なんだろう。何にも持たなくていい、何にもしなくていい。ただ見るためだけにあるはじめての町は、いつも何とも言えず澄んでいる。

 

 

 

ポルトガルが好き、ほんとうに好き。言葉がわからない国のなかで、たぶんいちばん好きだ。

 

この瞬間の網膜を眼鏡みたいにして取っておいていつでもかけられたらいい、と思う。だけどそうもいかないから、せめて風景を、光を、いっぱいに吸い込む。5日間の、北ポルトガルでの冬休み。

01/12/2013

 

 

パリへ来るのは、たぶん六度目だ。

 

 

パリではいつも、美術館を巡っている。今回も限られた時間ではあったけれど、土日でマルモッタン美術館、装飾芸術美術館、アンリ・カルティエ=ブレッソン財団、ヨーロッパ写真美術館へ行くことができた。本当はオルセーも再訪したかったのだけど、時間がたりず断念。それから、今年再開したはずのピカソ美術館はまた改装のため閉じていた。楽しみにしていたのに、あそこは一体いつちゃんと開くのだろう。

 

むかし芸術家たちが集まったというカフェに憧れているので、モンパルナスへ行ったりもした。今度こそどこかに入ってお茶でも飲もうと思っていたのだけれど、値段と中にいる人たちの雰囲気にたじろぎ、ただ周りや墓地を散歩して帰ってきた。か…、悲しくなんかない、ぞ。。

 

ところで、パリはいつ来ても曇ってる印象なんだけれど、ロンドンと同じでこういう天気の町なんだろうか。

 

 

 

何度来ても馴染まないこの町でひとつ、とても大事に思っている場所がある。ルーブルからそう遠くないところにある、カフェ・ヴェルレ。パリへ来たときにはここでコーヒーを飲み、そのあとチュルイリー公園を散歩する、これはゆずれない。日曜はお休みなので週末旅行がほとんどのわたしはそのほかの予定との調整がなかなか難しかったりもするのだけれど、それでもたっぷり時間をとって、かならず来る。

 

すごく特別な雰囲気のあるお店というわけではないけれど、ここで美味しいコーヒーを飲みながらつぎつぎ来て豆を買っていくお客さんたちを眺めていると、緊張がほどける。わたしにとっては、注意深くそっと置いておきたい、砂に描いた丸い陣地みたいな、そういう場所なのだ。

 

 

 

写真美術館には長い行列ができていた。疲れていたのでいちど休憩して(サン・ポール駅前にはここではあまり見かけないスターバックスがあった、天の助け!)、しばらくしてから戻ってみたものの、行列の長さは変わらない。しかたがないので最後尾につき、暗くなりはじめたなか、本を読んで待つ。

 

持っていた本はエリアス・カネッティ『マラケシュの声』。駱駝とスークのモロッコから、フランス・パリの路地裏に目を移す。ここからだとモロッコよりも、日本のほうがはるかにエキゾチックに思える。日本の風景を思い出そうとしても、突然現れたぴかぴかのガラスケースのなかにある手の届かない商品みたいで、目が眩んで、うまく取り出せない。生まれ育った場所がこんなに遠くて、パリは近づけば近づくほど遠ざかっていって、ああもうどこまでもひとり、と極端な絶望的な気分になる。そんな自分がおかしくて、笑う。

 

 

パリは、異国の町だ。もちろん日本以外ではどこにいてもそうなのだけど、他の言葉が通じない国のどの町よりもここではもっとはっきりと、わたしは異国人なのだ。この町ではわたしは異質で、歩いても歩いても触れるところにささやかに波が立つだけで、溶けることはない。どうしてなのかはわからないけれど、振り返れば最初からそう感じていた。

 

わたしはパリが好きじゃない。7年前に初めて訪れてから今までずっと、ぜんぜん好きじゃないけれど、なぜかここでだけ味わう自分の輪郭がくっきり浮き上がるような孤独感はけっこう好きだ。これを味わいたくてこんなに何度も来ているのかもな、もちろん美術館へ行きたいのもあるけれど、ともう暗い路地で並びながらひとり納得したりしていた。

 

– パリでのtwitter(日付、時間は日本時間です)

1日目() – 2日目() – 3日目(

15/11/2013

 

グレートブリテン島の西の果て、コーンウォール州へ行ってきた。ペンザンスという町に2泊して、3日目は朝から近くの町セント・アイヴスへ。正直海外よりよほど遠いのだけれど(ロンドンからパリやブリュッセルまでは2時間だけれど、ここまでは5時間半かかる、たとえ何もトラブルが起きなくても)、ほとんど荷物も持たずふらりと出かけていった。

 

何度も書いている気がするけれど、オフシーズンの避暑地、とくに海辺の小さな町が好きだ。どこへ行ってもすいているし、B&Bには信じられないくらい安く泊まれるし、海はどの季節もそれぞれきれいだし、魚介類も美味しい店を探せばいつでも美味しい。なにより、がらんとしているけれどなんともいえず穏やかで、独特の抜け感というか風通しのよさがあって、それに癒される。たまに、救われたような気さえする。

 

今回行ったふたつの町も、まさにそういうところだった。暫くの逃避。そういえば3日間もひとりでこんなに静かに過ごすのは(とはいえ、あちこち動いてはいるんだけれど)、ひさしぶりかもしれない。

 

 

ロンドン・パディントン駅を9時に出発するはずだった電車は、遅れてきたあげく、レディング駅であっさり止まって動かなくなってしまった。しかたなく次に来た電車に乗り換え(もちろん、せっかく取っていた指定席は容赦なく吹っ飛んでしまう)、西へ。ペンザンスに着いたのは16時だった。家を出てから8時間。人為的なあれこれによって、目的地は、想定していた以上に遠かった。

 

滞在したのは、イギリスらしい、4部屋しかない家族経営のB&Bだった。もの静かで優しいご夫婦が、美味しいお茶と朝食でもてなしてくれる。広くはないけれど行き届いたひとり用の部屋。ベッドはふかふかで大きな枕がふたつにクッション、海の見える窓があり、その枠が簡易ソファのようになっている。1日目の夜は、その窓枠に座って、暗い海を眺めながら存分に本を読んで過ごした。2日目は夕食をとっていたレストランで倒れてしまって、その後はベッドで過ごすはめになってしまったのだけれど。

 

ああそうか、こういう何もかもが楽しいのだ、といま書きながら振り返って思う。いいこともわるいこともあるけれど、遠出にまつわる何もかもをわたしは愛していて、それでひとりで出かけていく。使いこんだカメラをさげて、文庫本を何冊か選んで、ヘッドホンを首にかけて。

 

 

 

2日目はグレートブリテン島最西端の岬、Land’s endへ。ペンザンスから1時間、路線バスは細い道を走りつぎつぎ丘を越えていった。バスの二階で揺らされるがままになりながら、陸地の端の場所へ行くっていうのはなんでいつもこうなんだ、と思う。せめてもうすこし大きなバスを、もうすこし穏やかに運転してくれればいいのに。ポルトガルのロカ岬へ行ったときは酔って酔ってたいへんだったし(あれはいまだにわたし史上最悪のバス酔いであります)、ノルウェーのノールカップへ行ったときはバスのあまりの速度に曲がり角では道から落ちるんじゃないかとひやひやした。最果て訪問は、いつも忍耐とセットだ。

 

到着した岬は霧雨だった。そしてだいたいの天気の悪い岬がたぶんそうだけれど、台風のような風。傘をさすわけにもいかないので(宿の旦那さんにも、ぜったいに傘はささないこと、君なんてパラシュートみたいになって簡単に飛ばされてしまうよ、と忠告されていた)そのまま歩いていたら、シャワーを浴びたあとみたいになってしまった。ちょうどお昼の時間だったのでそこにあったカフェに入り、クリーム・ティーを注文して、カメラと髪を拭く。そうこうしているうちにすこし天気がよくなり、柔らかく日が差してきた。そのまましばらく、ガラス張りの暖かいカフェで荒涼とした風景をぼんやり見つめていた。

 

それにしても、Land’s end、きっぱりしていて情緒もある、いい名前だ、と思う。ランズエンド。

 

 

 

ペンザンスからセント・マイケルズ・マウント(修道院がてっぺんにある小さな島、引き潮のときは歩いて渡れるらしく、モンサンミッシェルのようだった)まで、とんでもない強風に飛ばされそうになりながら海辺を5km以上、歩いていったりもした。灰色の雲と灰色の海のなかのセント・マイケルズ・マウントはぼんやりと不気味で、風はわたしの髪を逆立てながらごうごう鳴っていて、なんだか戦いに向かうゲームの主人公にでもなったみたいで可笑しかった。

 

 

セント・アイヴスへ行きたかったのは、20年代にバーナード・リーチが濱田庄司を連れて帰国したときに窯を開いた町で、その頃から芸術家村として知られているところだからだった(それはそうとヨーロッパの陶芸好きの間での濱田庄司の知名度にはこれまで何度も驚かされた、ハマダという名前が外国人の口から出るというのはなかなかに不思議な感じがする)。と言ってもリーチや濱田やここで制作をした誰かのゆかりの地を巡りたかったわけでもなく、沢山の人を、とくに芸術家をひきつけたこの町が一体どういうところなのか、見てみたかったのだ、単純に。

 

乗り継ぎ駅のセント・アースを出発した電車はほどなくして海沿いへ出る。それからしばらく走ると、遠くの海岸線に白く光る町が見えてくる。それがセント・アイヴス。思わず、わあ、と声をあげてしまう。たまたま時間帯と天気がよかったのもあるだろうけれど、遠くから眺めるその町は、ほんとうにきらきらとしていた。

 

 

 

 

土産物屋があり、謎のギャラリーがあり、経営が成り立っているのかわからないジュエリーショップがあり、お菓子屋があり、またギャラリー。セント・アイヴスはそういう町だった。休日を過ごすのに、オフシーズンの観光地の空気を享受するのに、これ以上の場所はない、と思う。ささやかと言ってもいい町の規模とまとまった雰囲気、連なる家の美しさ、海へ続く坂道、ほとんど人のいないビーチ、漂う明るさと倦怠感。しかも、ここにはテート・ギャラリーがある。

 

 

 

町なかをひととおり歩き、ビーチに出る。ちょうど天気が上向いてきたところで、海は青かった。犬の散歩をしている人が行き交う。立ち話をしている人もいる。やわらかい砂に沈みながら、浜をゆっくりと端から端まで歩く。

 

 

 

満ち潮が砂に複雑な模様をつくる。ビーチの真ん中に立ったまま、しばらく見惚れていた。

 

 

テートでやっていたのはAquatopiaという展示で、海や海の生物を描いたりかたどったりしたものが色々な切り口で集められていた。どちらかというとちょっとグロテスクだったり恐れを感じさせるような作品が多くて、一枚一枚丁寧に見ているうちに不安になって、どこかにさらわれそうだった。すてきな展示だった。

 

わたしの海への漠然とした憧れというのは自分で言うのも何だけれど中々凄まじいものがある。ひとつの大きな理由は海岸線から遠い京都市で育ったからで、もうひとつは海底二万マイルがとても好きだったからだ(たぶんわたしの人生にもっとも大きな影響を与えた本のひとつだと思う、人間はそうそう変わらない)。テートの展示は、陸地から実際に見る海というよりは、海底二万マイルを通じて感じる海に近かったと思う。触れられない、触れちゃいけない世界が横たわっているっていう、なんていうか、気配のようなもの。きっとわたしはそのぼんやりした、けれど圧倒的な何かが好きなんだ、と、思った。

 

 

 

イギリスの美術館では、こうして学生が絵のまえに座りこんでスケッチしたり、絵と文章の混在したメモのようなものを描いているのをよく見かける。ざっくばらんで、ぜいたくで、とってもいいと思う。

 

 

 

昼食をとろうとテートのカフェに入り、眼下に広がる町の美しさに驚いた。印象が、色が、ぐんと濃くなる。町というのは本当に、高いところから眺めてみないとわからない。

 

 

リーディングウィークはあっという間に過ぎていった。秋学期も残り半分。今年も、あと1ヶ月半だ。

 

海辺の町での時間はわたしを洗って、漂白してくれる。ロンドンに戻ってきてまた課題に追われても、気持ちはぴんと張ったままだ。残り少ない今年、細かなことを守りながら緩やかに生活しよう、目の前のことを確実にひとつずつやろう、と、あらためて思ったりしている。

03/11/2013

 

バスの二階の、いちばん前の席が好きだ。普段はわりに混んでいる路線に短区間乗ることが多いからあまりここに座ることはないのだけれど、ホワイト・ハート・レーンのあるトッテナムへ行くときとグリニッジへ遊びに行くときは、始発に近い停留所から長い時間バスに乗るのでかならずここを陣取る。見慣れた風景から、郊外へ。コーヒーを片手に、ヘッドホンで音楽を聴きながら、思いきり他人の顔をして町を眺める。

 

それにしても、今年の秋はほんとうに天気がよくない。暖かいうちは公園で本を読んだりしようと思ってピクニックラグを新調したのに、結局ぜんぜん使えないまま11月になってしまった。

 

17時、こんなに日が落ちるのって早かったかしら、と不思議な気持ちで窓から薄暗い空を見上げる。そうだ、先週の日曜にサマータイムが終わったんだった、と思い出す。今年は9月が寒かったこともあってそのころから気温があまり変わらないので感覚が鈍っていたけれど、いつまでもこの季節が続くはずもない。もうすぐ、鬱々としたロンドンの長い冬がやってくる。ここで過ごす、最後の冬。

 

 

 

先週末は、高校時代からの仲よしの友達がお仕事を兼ねてロンドンに来ていた。特別なことはしなかったけれど(本当はどこか新しいところへ連れていければよかったなーと申し訳ない気持ちもある)、うちに来てもらったりホテルにお邪魔したり、あちこちでお茶したり、公園を散歩したり、デパートを一緒にうろうろしたりしてのんびりと過ごした。わたしの一時帰国のときにはかならず会っているのだけれどなかなか一日中遊んだりはできないので、他愛ない話を好きなだけできるのがとにかく、嬉しかった。

 

お土産にいただいたのは、彼女の会社のお菓子だった。八ツ橋。店頭に並んでいるものは無地なのに、これには一枚一枚ロンドンらしい模様が入っている。わたしのためだけにデザインから作ってきてくれたと知って、驚いた。嬉しいやらかわいいやらで、もったいなくて、なかなか食べられない。

 

誰かと親しくするのが下手すぎて自分であきれてしまうわたしだけれど、尊敬していると一点の曇りもなく言えるほんとうに大好きな人たちがずっと変わらず近くにいてくれる、それだけで自信が持てることもある。彼女しかり、大学時代からの友人しかり。あらためてしみじみ書くのも恥ずかしいんだけれど、幸せだなあ、と思っている。

 

 

リーディングウィーク前最後のスウェーデン語の授業は、EUで翻訳の仕事をしている先生を招いてのディスカッションだった。わたし達学生がやった訳を見てもらって、良い表現を皆でさがす。訳すのは実際のプレスリリースや、カンファレンスの報告書。緊張したけれども、勉強になった。なにより頭の引き出しをいっぺんに開けたような気分になって、わくわくした。言語って、なんて奥行きのあるものなんだろう。

 

わたしはずっと日本語は繊細な言語だと思っていたけれど(そしてきっと実際繊細だけれど)、そう思えるのは日本語がわたしの母語で、そこにしっかりと感性がくっついているからだ。英語もスウェーデン語もフィンランド語もとても繊細で、なにも日本語だけが特別なわけじゃない。最近になってようやく、なにかを読んでいるときだけだけれど、そのことを肌で感じられるようになった。

 

だからディスカッションは楽しかったけれど、自分の力不足に苛立ちも感じた。できることがすこしずつ増えるにつれて、たりない、という思いが膨らむ。わたしにはまだ、毛細血管が備わっていないのだ。この無力感からまた始めないといけない、と、震えるように思った水曜日だった。

 

 

 

 

わたしの部屋はベッドがロフトになっていて、デスクがその下にある。ちょっと狭いうえに電気をつけないと暗いしつけたらつけたで明るすぎるのだけれど、気に入っていてけっこうずっとここにいる。

 

狭いところが好きなのは昔からだ。小学生の頃は、暗い押し入れのなかで、積み上げられた布団と衣類のケースと天井のあいだに挟まるようにしてずいぶん長い時間を過ごしていた。ほとんど身動きもとれないのに、本をこっそり持ち込んで懐中電灯で読んでいた。

 

それにしても、机に斜めになって座るくせ、いいかげんやめないとなーとは思ってるんだけれど。

 

 

 

BBCのSound Of 2013で知ったアイルランドのKodaline、普段あまりこういう感じの曲は聴かないんだけれど、なんでかとても好きだったりする。ちょっと泣きたい夜に。

22/10/2013

 

クラクフへ向かう日の朝、吹雪に霞む文化科学宮殿。ワルシャワの記憶は、雪に埋もれている。

 

 

そもそも文章を書くことがさして得意ではないわたしだけれど、旅行記を書くのはとくに苦手だ。どこまで町やら何やらについて説明するか、どこまで自分の感情に触れるか(わたしの場合旅行といえば半分逃避なので内省的になりがちなのだ)、綱引きをはじめてしまってもう、ぜんぜん進まない。自分の語彙の貧弱さを呪いながら、うろおぼえの話は一応調べたりしながら、時間をかけていちおう形にする。有益な情報を発信するわけでもないただの趣味ブログなのだからゴットランドでの日記(Link)みたいに存分に感傷的になってぶっちぎってしまえばいいんだけれど、これはこれで数年後、黒歴史になっていそうで恐ろしい。ともかく、えーと、苦手ってことです。旅行中のことを、書くのが。

 

そんなわけで、わたしは結局あまり旅行記を書いていない。ドイツでのバウハウス巡礼も、ロシアのサンクトペテルブルクで駆けずり回ったことも、スウェーデンの山奥で2週間機織りだけして過ごしたことも、結局ちゃんと書かずに終わっている。わたしは紙の旅行用メモを持たないので、記録はツイッターに書いたことと、場合によっては携帯のメモに残してある端切れのような文章と、写真だけだ。そして、実はそれで十分だと思う。写真はいつだってとても雄弁だし、ツイッターはこれはこれで生き生きとしているし、それだけで記憶はずいぶん立体的なまま保てるのだ。

 

けれど、いまになって急に、すこし怖くなった。わたしが持っていられる記憶は、奥深くに眠るものも含め、ぜんぶでどれくらいなのだろう。それ以外のことはぜんぶ、忘れていってしまうんだろうか。手放したらもう拾い上げられないんだろうか。思い出は少しずつさびついていくのがいちばんよい、美しい、と思っているけれど、その過程で失いたくないものが、本当はまだあるんじゃないのか。

 

そう思ったらやっぱり、日々の雑記も旅行記もちゃんと書きたいなあと思った。なんでここにって、それは、テキストサイト(なんと懐かしい響き!)を13年、やっているからです。恥ずかしくて死にたい気分のこともあるけれど、こういうことを飽きずに続けていて、楽しいから。書くことが得意なわけではないけれど、好きなんだなあ、と、思う。

 

 

 

 

で、なんでこんなことを唐突に考えたのかというと、ウェブ用の画像フォルダを整理していて、クラクフの写真が出てきたから。3月31日から4月7日まで訪れていたポーランドの旅行記は3回に分けて書くつもりで、1回目のグダニスク(Link)、2回目のワルシャワ・トルン(Link)は現地で更新したのだけど、最後に3日も滞在したクラクフについては載せるつもりの画像だけつくって結局なにも書かないまま放っておいてしまったのだった。本当のところを言うと本屋で過ごした時間が長すぎて特別書くことがなかったわけなので笑、それはそれでいいやとは思うんだけれど、やっぱり断片でも書いておいたほうがよかったかな、とちょっとだけ思ったりして。

 

 

 

なので今さら完結させるべく少しだけ、クラクフのこと。グダニスクとワルシャワは4月なのにもかかわらず吹雪だったけれど、クラクフでは雪はいちども降らなかった。めずらしく貸しアパートのようなところで3泊して、1階がパブだったので奇声をあげる成人男子たちが中庭と階段に深夜までたむろしていて無防備なあの部屋ではなかなか恐ろしかった。丸3日間、旧市街を中心に随分広い範囲を歩き回った。時間があったので地図を基本的に持たずに歩いていて、盛大に道に迷ったりもした。教会の内装に圧倒され、妙にテンションの高い英語のオーディオガイドに笑った。川沿いをひとりぽつんと歩いていって、西友みたいな店でぼんやりと食料品のパッケージを見てまわった。

 

ユダヤ人地区ではしつこい客引きにあったので、無理矢理スウェーデン人のふりをして切り抜けようとした(ちなみにこれはスウェーデン語版の案内を出してこられて失敗に終わった、ポーランドとスウェーデンは隣国だった、すっかり忘れていた)。古いものを雑多に置いている店でおじさんと片言で会話して、栓抜きと、なぜか「メイフラワ—号」と書かれた船のかたちの金属を買った。

 

 

 

 

 

それから、本屋にいた。ポーランドの絵本にすっかり心を摑まれてしまって、どれを買って帰るかあれ以上ないほど真剣に選んだ。カフェが併設されている素敵なお店が何軒もあったので、そこで長い時間、コーヒーと本とともに静かに過ごした。読めない言語の本は手に入れないことにしているわたしだけれど、ポーランドは特別だった。

 

 

 

 

朝食は、Cafe Camelotというお店に通って食べていた。ふわふわのオムレツにパン、紅茶で500円くらい。すてきなお店だった。オープンサンドやオムレツの具の組み合わせがどれも新鮮で、とても参考になった。

 

ポーランドへ行った頃は、直前にアイスランド語と音声学の試験を終えたところで、スウェーデンでの生活の終わりが見えてきて焦っていたように思う。溶けない氷の塊みたいなものを、お腹のなかに抱えている気がしていた。そのせいか、窓のそとの雪景色を眺めていた長距離列車での記憶が、ほかの全部を霧のようにうっすらと覆っている。そして、クラクフではなんといってもブックカフェの記憶がとても大きな割合を占めているのだけど、そこで具体的に何を読んでいたのか、何をしていたのかは実はぜんぜん覚えていない。きっとなにかしら日本語の本を読んで、そんな時期だったから、ぼんやり考えごとでもしていたんだろう。

 

あと、もうひとつ。その後、友達からポーランドどうだった、と訊かれたので、楽しかったよクラクフではずっと本屋にいた、と答えたことがあった。そうしたら、なんで?読めないじゃん、と笑いを含んだ声が返ってきてちょっと驚いた(普通にへえいいねって言って終わるかと思っていた、本読む人だから)。それで、ああこの人のこういうところとてもいいなあ、だから話をしたくなるんだなあ、と思ったのだった。誰かとの何気ない会話が突然強烈な印象を残してその人のイメージを決定づけることが稀にあって、あれは些細だったけれどまさにそういう瞬間だったので、ルンドに帰ってからのことだけれどクラクフの記憶の一端として印象深く残っている。

 

 

旅行記を書くのが苦手なわたしだけれど、読むことは大好きだ。一昨年ノルウェーのフィヨルドに浮かぶ船のうえでサン=テグジュペリの“Wind, Sand and Stars”(邦題は『人間の土地』)を読んだことがきっかけで、旅行記や外国の香りのするエッセイを好んで旅行中に読むようになった。チェコでは沢木耕太郎の『深夜特急5』を読んでいたし、スペインではチャペックのスペイン旅行記、20代最後の旅行になったエストニアでは村上春樹『遠い太鼓』(この本はその後紆余曲折あってスウェーデン・ダーラナ地方での山ごもり中、それからニューヨークでも読むことになった)、ポーランドの長距離列車では須賀敦子のイタリアでのことを綴ったエッセイ。本のなかの場所は、そのとき実際にいる国や地域と合っていてもいなくても、どちらでも構わない。

 

この2年のわたしはそうして、いつも本の世界を重ねて旅をしている。遠い未来かもしれないけれど、いつかわたしも鮮やかに自分の体験を描けるようになればいいなあ、と、思いながら。