19/10/2013

 

ロンドンでいちばん好きな場所、プリムローズ・ヒル。何十回も来ていてもう見慣れた風景だけれど、それでもここに立つたび、体中の毒がすーっと抜けていく気がする。

 

「(ここを離れるとき)節目にわたしはもう戻らない時間を束ねて、表紙に何重にも焼きついたプリムローズ・ヒルの風景を飾るにちがいない」と書いたことがあったけれど、その思いはルンドでの1年を経験したいまも変わっていない。

 

 

授業が始まって3週間が経った。1年のブランクがあるとはいえ先生もクラスメイトの一部も馴染みのメンバーなので、初週からほぼアクセル全開。イギリスの大学ってこんなだったっけか、、、としみじみする暇もないまま山のように課題を積まれ、すっかり目を回しているうちに授業が3周していた。しかも今年は妹もロンドンにいるので週末一緒に出かけたりしていて、そうすると平日にちょくちょく朝までやらないと課題が終わらないので、睡眠がもう不規則極まりない。いい歳なんだからもうちょっと体にやさしい生活を送るべきだとは思うんだけれど、まあね、うん。

 

とはいえ、スウェーデン語はまわりとの差は感じるもののルンドで悪戦苦闘した分さすがに随分よくなっていて、1年前なら確実にこなしきれなかっただろう量の課題をなんとかこなしている。フィンランド語も1年授業としては休んでいたので心配していたのだけど、文法じたいは繰り返しやっていることもあって、まずまず好調。どちらの言語もそれなりに重ねてきた成果がちゃんと見えるので、やる気は失わずにすんでいる。これからさらに忙しさが増していくであろう最終学年、この調子で繋いでいけたらいいのだけど。

 

 

 

ロンドンに戻ってきたばかりの頃は、スーパーやデパートに並ぶカボチャやおばけたちに気が早いなあと呆れたりしたものだけれど、気がつくともうハロウィンまで10日あまり。あまりの時間の流れに、このままではあっという間にクリスマスがやってくる、と怯えたりしている。日々を手を離すと飛んでいってしまう風船のように感じることもあるけれど、まあでもこの3週間を振り返ると、毎日時間をほぼ余すことなく使っているし、できることは全部やっている、のかもしれない。飛んでいってしまっているわけじゃない、たぶん、と気をとり直す。

 

なにはともあれ、普通に学校に行くだけで色んな人からお菓子がもらえるし、大学生たちの血みどろゾンビ本気仮装が見られるので(仮装といってもぜんぜん可愛くはない、奴らは本気だ)、ハロウィンは毎年楽しみです。笑。

 

 

 

ラウリーの展示が観たくて、会期ぎりぎり、テート・ブリテンへ行ってきた。作品じたいも単純にとても好みなのだけれど、なによりその一貫性にぐっときた。描く対象もまなざしも画家としての人生を通して変わらない。美しいと思う。信念のようなものが滲んでいて、ぞわぞわする。生み出すことと、続けること、どちらにもきっとわたしには想像もつかないくらいの膨大な熱量が必要だ。

 

カタログはペーパーバック版をいちど手に取って戻し、長く付き合うのだからとハードカバー版を買うことにした。掌や膝にのせてページを捲っても曲がらない、しっかりと重い表紙がうれしい。

 

 

 

BOYのMutual Friendsは今年いちばん部屋で流しているアルバムのひとつで、いつも夜にかけている。この曲はこのアコースティックバージョンがとくに好き。終わりのほうに入っているのだけど、流れてくるとつい手をとめてしまう。“Waited for your call, for the moon” “To release me from the longest afternoon”

 

寒くなってくると、アコースティックギターの音が聴きたくなります。なんでだろ。

30/09/2013

 

そして、また、ロンドンで暮らしはじめた。

 

 

新しい部屋は、一昨年暮らしていたアパートの別の部屋。ロンドンのアパートは部屋によって間取りがまったく違うのだけれど(内装も大家さんがどれだけ手をかけているかによって全然違ってくる)、スウェーデンへ行っている間トランクルームで寝かせていた荷物があってあまり新しいものを買う必要がなかったのと、やっぱりアパート自体が住み慣れているので、越してきて一週間もしないうちにするすると馴染んでしまった。新しい場所に対して感じるぱりっとした緊張感のようなものは、最初からなかったような気さえする。この3年3ヶ月で5つの部屋を渡り歩いてすっかり引っ越し慣れしてしまったこともあるけれど、うーん、それもどうなんだ。

 

今度の部屋はベッドがロフトなので、一昨年ベッドカバーにしていた布はソファにかけることにした(ちなみにロンドンの賃貸アパートは家具つきが一般的なのでこのソファも最初から置いてあった)。新しく買い足したのは、スピーカー、デスクの上に置くレターボックス、ストックホルムで買ってきたポスターを飾る額。ルンドの部屋からもキャンドルスタンドや花瓶など、いくつか大切なものを持ってきた。もともとあった荷物に、少しだけスウェーデンの色。

 

底冷えする部屋、弱々しいシャワー。戻ってきてから2週間、降りつづいた雨。火災報知器の音、工事の音、どこから聴こえてくるんだかよくわからないサイレンの音。なかなか届かない荷物に、理不尽なメール。ああロンドンだ、と思う。ぼやいてばかりいるけれど、ここが好きだなあ、と、思う。

 

 

進級がかかったプレゼンがようやく終わった26日、日本から友達がやってきた。遅めの夏休みをとって、遊びに、わたしに会いに、来てくれたのだった。

 

中3日、体力の限界に挑戦してほんとうに色々なところへでかけていった。セント・ポール大聖堂やウエストミンスター、美術館に博物館、ウィンザー城。素敵なホテルでアフタヌーンティーをしたり、レ・ミゼラブルを観に行ったりもした。過ぎてしまった今になってみると、夢のような日々。滅多に行かないところへあちこち行ったので新鮮だったのもあるけれど、こんな風に思う理由はもちろんそれだけじゃない。チャーミングな彼女が一緒にいるだけで、見慣れた風景も行き慣れたお店も自分の部屋さえも、これでもかってくらいキラキラしていた。惚気かって感じだけれど、本当にそうなんだから仕方がない。

 

あらゆる方向からどんどん楽しい時間が編まれていくような、3日だった。

 

 

 

厳しい2年間を過ごした町。これから、さらに1年を過ごす町。もともとここが好きで移り住んだわけじゃないのに、ほかのどこに対しても感じたことがないようなこの強烈な愛着はいったいどこから来たんだろう。あまり沢山特別なものを持ちたくないとつねづね思っているけれど、やっぱりロンドンは特別、とても、とてもとても特別。

 

不安定ではあるけれど、わたしの場所は今、ここ以外にない。住居も、所属も、ここにしかない。長い月日を貫いている思いを受け止めてわたしに新しい時間をくれたのは、今の大学で、この町だった。

 

だからやっぱり、いまのわたしが帰ることができる場所のひとつはここなのかもしれない、と、思うのだ。

06/09/2013

 

ロンドンへ戻る日がいよいよ近づいている。

 

2ヶ月におよぶ日本滞在、色々なことがあった。当初やろうと思っていたことは半分もできなかったけれど、帰国のたびに会っている人たちの多くには、今回も会えた。スウェーデン語の先生を幸運にもつかまえたことや、イヤープロジェクトを積み残していたこともあって(これはまだ終わっていない)、勉強もした。京大前の進々堂には随分お世話になった気がする。買い物へ行ったし、テレビもそれなりに見た。夜にはしょっちゅう散歩へでかけた。ぐるりと大回りして、帰りに閉店間際の本屋に寄る。それが楽しみだった。

 

長崎と、それから東京へも行った。大学時代からの友人たちとは、レンタカーを借りて那須まで足をのばしたりもした。動物たちと戯れて、美味しいものを食べて、よく笑った。彼らと会ったあとに振り返るといつも、可笑しかったなあ、でも具体的になにがあんなに可笑しかったのかなあと思うんだけれど、そんな感じでもう十年が過ぎている。

 

 

リビングの机の上には、その日郵便で届いたわたしの三冊の本が置かれていた。ヴォルター・グロピウス『建築はどうあるべきか』、ポール・オースター『ムーン・パレス』、サマセット・モーム『サミング・アップ』。母は帰ってきたわたしに、その本をさしながら「人生、楽しいこともたくさんあるわよね」と言った。目に涙をためて。

 

不穏にとぐろを巻く灰色の感情を残して、日本での夏が去っていこうとしている。

 

 

 

幸か不幸か、わたしたちの実体は、泡のように消えてなくなったりはしない。天地がひっくり返るような思いをしても、そうして負ったちりちりと焼けるようななにかを庇っても、明日はある、つづいていく、とにかく今のところは。つづいていくことを、祈っている。

09/08/2013

 

7月1日、月曜日。

 

7時間半のフライト、5時間の時差。相変わらずのヒースローから、ニューアーク国際空港へ。

 

空港はあまり感じがよくない。ATMは壊れているし、それで話しかけた職員の対応は氷のように冷たい。慣れないアメリカ英語なので、なんとなくこちらの焦点もあわない。しかも、外は雨だ。

 

とにかくニューヨークへ向かおうとバスのチケットを買い、停留所で待つ。けれど30分待っても、それなりに本数があるはずのバスが来ない。1時間が経ってようやく乗れるバスが来たときには、待っていた人たちの怒りはすでに頂点。荷物のことでさっそく運転手と口論をはじめた。激しい怒鳴り合いに発展していくのを横目に、バスに乗り込む。ああ、この国で穏やかに一週間過ごせるんだろうか。

 

1時間ほど走って、バスはニューヨーク市街に入った。マンハッタンは、余すところなく都会だ。ずっと、わたしの対極にあると思ってきた町。窓のガラスにくっついた雨粒のなかで、ネオンサインが揺れる。10年遅れてはまっているマルーン5のアルバムが、イヤホンから流れている。

 

 

 

小雨のなか、予約していた宿へ。お世辞にもいい部屋とは言えない。ベッドも壁も絨毯もぼろぼろだし、匂いがこもっているのに窓は開かないし、隣の共同シャワーからは怪しい音がする。それでもひとり部屋なのだから、昨日までより贅沢だ。なによりここはマンハッタンのど真ん中。どこへでも歩いていける。

 

本当は今日のうちに一箇所くらいどこかへ行きたかったのだけど、バスのトラブルもあって思っていたより遅い時間になってしまった。とりあえず荷物を置いて、iPhoneのSIMを探しに出る。T-Mobileの店員さんはとても親切で、一週間使うのにいちばん安いプリペイドのプランを一緒に選んでくれた。

 

見上げたエンパイアステートビルは、うすい雨雲に霞んでいた。大きな交差点の前で歩道の端に寄って、行き交う人たちをただ眺める。自分だけが喧噪から切り離されているような、たよりない感覚。それでも、不安よりも期待が膨らんでいく。目の前に広がる大都会。見たいものは無限にあるし、それを超える出会いもきっとある。なんてったってこれから一週間、どこへ行ってもいいのだ。

 

宿に戻って、古ぼけたベッドのうえで地図を広げる。さあ、明日はどうしようか。

 

 

 

7月2日、火曜日。

 

朝5時、悪夢で目が覚める。窓が開けられない部屋の空気は淀んでいる。うなされたのは、きっとひさしぶりの暑さと湿気のせいだ。凄まじい音のするエアコン(の、ようなもの)をドライモードにセットして、もういちど眠る。ロンドン時間ではもう10時だからたいして眠くないけれど、ここの時間に体を慣らさないといけない。

 

シャワーを浴び、メールチェック、適当にメイクをして、近所で評判だというお店で朝食をとる。ブルーベリーワッフル。生地にブルーベリーが入っているワッフルに、オレンジバターと、フルーツが添えてある。温かいうちにバターをのせ、メープルシロップをかけて食べる。美味しい。結局4枚のワッフルをぺろりと平らげてしまった。それにしても、平日の10時に朝食のために列をつくるなんて、イギリスでは(もちろん、スウェーデンでも)考えられない。

 

 

 

ニューヨークに来たのは、美術館が見たかったからだった。どこから行くか悩んだけれど、まずはやっぱりMoMAへ。常設展は印象派からポップアート、現代アート、印刷物、プロダクトまで幅広い。それほど広くない館内を、たっぷり4時間かけて2周する。マティス、ピカソ、ゴッホ。クレーも予想外にひと部屋ぶんの作品があって嬉しい。数枚あったカンディンスキーがすばらしくて、もっと作品を見たくなる。

 

写真も数は多くないけれど、見応えがあった。ヴォルフガング・ティルマンス、ロバート・フランク、スティーブン・ショア。ビル・ブラントが撮った30年代や第二次大戦中の写真を眺めながら、想像の余地はあるにせよ、その時代の空気が残るのが写真の美点だなとつくづく思った。当たり前のことだけれど、その場所でその瞬間に実体を伴っていたものが写し取られているから、個々人の表現という枠を超えて写真は貴重なのだ、と思う。

 

企画展はコルビュジェ。並外れた感覚に心動かされる。デッサンを中心に模型、写真から油絵まで、相当な点数。アーティストとしての面も丁寧に見せている展示だと思った。それにしても、目の敵にした(語弊があるかもしれない、コルビュジェとニューヨークに関するあれこれを読んでいると、ある種の執着か憧れなのかもしれないとも思う)街でこういう展示が後年開かれるなんて、本人が知ったらなんて言っただろう。図録がほしかったけれど、あまりにも高かったし、なにより重かったので断念。フランク・ロイド・ライトの栞を母と自分へのお土産に、MoMAを後にする。

 

 

 

インターナショナル・センター・オブ・フォトグラフィーまで歩き、そこでも展示を見る。写真を素材と捉えているような作品も多くて、それもまた面白い。多彩。タイの洪水の写真がとても印象に残った。腰まで水に浸かって、まっすぐにカメラを見る親子。ドキュメンタリーと表現のあいだ。

 

タイムズ・スクエアへ戻ってコーヒーを飲み(妹に薦めてもらった、ブルー・ボトル・コーヒーというお店、たしかに美味しかった)、17番街まで一気に下る。何軒か気になったお店をめぐり、軽く夕食をとって、宿に戻った。これで、17番街とMoMAのある53番街を徒歩で往復したことになる。なかなかの距離。

 

必要に迫られて夜更かし。スウェーデン語に苦しめられながら、眠る。

 

 

 

7月3日、水曜日。

 

また朝5時、暑くて目が覚める。たいして眠っていない。もういちど横になり、7時までうつらうつら。

 

ペン・ステーションの前で行き倒れそうになりながらコーヒーショップを探し、コーヒーとスコーンを手に高速列車、アムトラックに乗り込んだ。8時30分発、ボストン行き。混んでいて、なかなか席が見つからない。乗っているのはキャリーケースを持っている人ばかり。そういえば明日は独立記念日なのだ。ホリデー。すっかり忘れていた。

 

アムトラックは速い。あっという間に摩天楼は遠ざかり、気がついたらもうコネチカット州。ニューヨーク州は狭いのだな、とあらためて思う。車内は快適で、wi-fiも使える。2時間半ほどで、ミスティックに到着。車掌に声をかけ(ドアが3箇所しか開かないので、降りるときには声をかけるよう言われたのだった)、電車を降りる。わたし以外にも何人かの人が降りた。一様に、大きな荷物を引きずって。

 

 

 

ミスティックは小さな町だ。駅から歩いて15分ほど、跳ね橋を渡って目抜き通りへ。こじんまりとしたブティックには、船や碇の柄のものが並んでいる。ちょうどお昼前だったので、ここでは唯一のカフェ(だろうと思う、ピザ屋やレストランやバーはあったけれど)に入り、クラムチャウダーを注文。それが、驚くくらいに美味しい。貝が大きくて、しっかりとした味がする。さすが海辺の町だ。

 

なんだか懐かしい、というよりもっとはっきりと、これに似た街並みを以前に見たことがある、と思う。アメリカに来るのは初めてなのにどうしてだろうとしばらく悶々としていたのだけど、そうだ、ディズニーシー。日本での甘い記憶が、ふわりと降りてくる。

 

とにかく日があたるところは暑い。歩いていると、汗の粒がつぎつぎ首筋をつたう。地図は、歩きはじめて数分で風で飛ばされてしまった。周りを見てみると、デニムなんて履いているのはわたしだけ。ああ、ちゃんと天気予報を調べてくるんだった。ふらふらになりながらも、古くから建っている家がたしかこの先にあったはずだよな、と、地図の残像を頼りに川沿いの道路をえんえんと歩く。バスもないし、この道をまた歩いて戻るしかないのだとわかっていても進んでしまう。わたしは本当にこうだなあ、と可笑しくなる。なんで懲りないんだ、本当に、いつもこうだよなあ。

 

 

 

水族館と、古い街を再現した野外博物館。それから古い街を再現したショッピングセンター。ミスティックは、そういう町だった。観光で塗り固められている。だけど、海の香りのする穏やかな川は、きっと昔と変わらない。

 

強い日差し、汗を乾かす風、悠々と進む船。アイスクリームを食べながら、跳ね橋が戻るのをのんびり待つ人たち。べたべたに甘いシェイク。白い教会に白い家。ドアにかけられたリースのような飾りと、アメリカの国旗。漂う港町の風情を吸い込んで、大都会へ戻る電車に乗り込んだ。

 

 

 

7月4日、木曜日。インディペンデンス・デイ。

 

身支度をすませて、宿の近くのスタバへ。朝10時。前日の疲れが、まだ身体の芯に残っている。レモンのパウンドケーキとラテを注文。名前は?と訊かれる。ヨーロッパのいくつかの国と同じように、アメリカのスタバでも客を名前で呼ぶのだ。呼ばれて返事をすると、have a nice day!という言葉といっしょに、カウンターの向こうからラテが出てくる。

 

ニューヨークへ行くならメトロポリタン美術館のための日をつくろう、と思っていた。なにせ東京ドーム4つ分の展示面積(!!!)なのだ、半日はかかるに決まってるし、そもそもいちばん行きたかった場所だからじっくり時間をかけたい。どうせなら、独立記念日に行こう。美術館なら、祝日でもきっとやってるだろう。そうして、今日がその日になった。

 

結局、ほんとうに半日をわたしはメトロポリタンで過ごすことになった(それでも回りきれなかった部屋があった、全部の部屋をあのペースで見ていたらきっといちにちじゃ終わらない)。一枚一枚の絵を、ひとつひとつの部屋を、ていねいに見る。最初は遠くから、つぎは画家と同じ距離感で、最後にもういちど、ちょっと離れて。使い古されてすり切れた言葉かもしれないけれど、本当に、それぞれに新鮮な感動がある。わたしが持っている知識なんて微々たるものだし、なによりわたしは絵が描けない。シロウト以外のなんでもないけれど、そうやって絵を見るのはたのしい。

 

 

 

ここで、わたしは小さな頃から知っているはずのセザンヌに恋をした。これまでカード・プレイヤーを描いた作品群以外は特別な思いで見たことはなかったのに、急に、その独特の色づかいが意外なものに感じられた。ここに緑なの、薄紫なの、といちいち面白くて離れられなくて、セザンヌの部屋を飽きずにぐるぐる回っていた。それから、気になるアメリカ人画家も沢山できた。たとえば、ジョセフ・ステラやジェイコブ・ローレンス。新しい楽しみがまた増えた。

 

メトロポリタン美術館は、稀有な熱量をもつ場所だ、と思う。見たい(かもしれない)ものが、圧倒的な数で、圧倒的な質で、そこにある。信じられない幅の広さ、懐の深さで。それから、圧倒的な自由。だだっぴろい館内じゅうすばらしいもので埋め尽くされていて、かつ、順路がまったく決まっていない。混んでいるっていっても人が分散するから大したことないし(もっと混む日もあるんだろうけど)、本当にどんな風に見て回ったっていい。

 

ここでのはじめの一歩は、随分前に遠い国の小さな町で、その日の宿も帰りのチケットもなくどこまでも身軽に一歩を踏み出したときの、あの感覚に近かった。世界は全方位に続いていて、なんだって選べるぞっていう、おおげさな気持ち。そういえば美術館って好きな人間にとっては世界を凝縮したような場所だよなあ、と、思ったりした。

 

 

 

独立記念日をねらってニューヨークへ来たわけじゃないけれど、せっかくだから花火くらいは見てみようかと思い立つ。調べてみると、宿から2、30分歩いていけば花火の見える場所に出られそうだ。空がだいぶ暗くなった頃を見計らって、マンハッタンを西へと歩き出した。

 

34番街は、ペン・ステーションを過ぎたあたりから歩行者天国になっていた。花火はハドソン川であがるので、さらに西へと歩くのだけれど、人は目に見えて増えていく。結局川のだいぶ手前で、それ以上前に進めなくなってしまった。

 

建物と看板と電柱、肩車された子供たちとアメリカ国旗の隙間から、つぎつぎ打ち上げられる花火が見える。大歓声。色とりどりの光と煙に目を細める。花火は、一昨年にテムズ川で見て以来だ。クラクションに我に返ると、目の前の歩行者天国になっていない南北の通りを、タクシーやバスがゆっくり人をかきわけて走っていく。まわりの不満げな声のなか、バスの窓越しに上がりつづける花火。なんだか笑ってしまう。

 

熱帯夜。あまりに暑いので、帰り道、サーティワンに寄る。並んで買ったチョコミントのアイスクリームは、日本で食べるのとまったく同じ味がした。緑色のアイスをのせたワッフルコーンを齧りながら、はしゃぐ人たちを眺める。エンパイアステートビルを見上げて、そうか、ニューヨークなんだなあ、とまた不思議な気持ちになった。

23/06/2013

 

 

 

 

ダーラナ地方にある小さな町、レトヴィクで夏至を過ごした。工芸学校で一緒に織りをやっていたイルヴァが、ストックホルムへ行くよりうちにいらっしゃい夏至だもの、と熱心に誘ってくれたので、甘えることにしたのだった。

 

家に飾る花を摘みにでかけ、買い出しをした。夏至祭のポールをたてるのを手伝い、子供たちが走り回るのを眺め、生き生きと楽器を弾く人たちを囲んで踊った。たくさんの人たちと話をして、美味しいごはんをご馳走になった。湖を見下ろしながら散歩をした。家族のパーティーにまでお邪魔して、一緒に庭でバーベキューをした。旅行者としてならぜったいに感じられなかっただろうダーラナの美しい夏至を、イルヴァはわたしに惜しみなく贈ってくれた。

 

 

 

イルヴァと旦那さんのトーレ、普段はストックホルムに住んでいるわたしと同学年の娘クリスティン、クリスティンのふたりのお兄さん、奥さんたちと子供たち(8歳のお茶目なフェリシアは、彼女の部屋や近くにある野外博物館を案内してくれた)。夕食に招いてくれた、イルヴァの双子の妹マリットとその旦那さん。きっとこれから毎年夏至が近くなるたびに、彼らの顔と、一緒に過ごした2日間を思い出す。それで少しだけ真似をして、白と紫と黄色の花を飾ったり、サーモンやポテトサラダを食べたり、苺のケーキをつくったりするんだろう。

 

 

 

わたしがレトヴィクを離れる日の朝、イルヴァは自分で縫ったという民族衣装を着てみせてくれた。白いブラウス、紺のスカート、赤、緑、白、黄、4色のエプロン。湖のほとりの透明な町で彼女は63年間、レトヴィクの人として誇りを持って生きている。かなわないなあって、思う。この町に似合う素朴な衣装に身を包んだ彼女が、とても眩しかった。

 

 

スウェーデンでの生活の、終わりの終わり。忘れがたい2日間になった。

10/06/2013

 

6月8日。ルンド大学での10ヶ月の学生生活が、終わった。

 

 

ルンドでの最後の一週間は、尋常じゃない速さでわたしを追い抜いていった。正直なところ全然、気持ちがついていっていない。今ここにいるわたしは間に合わせで連れてこられたダミーかなにかで、本物はまだルンドにいて、学校や図書館で勉強したり、友達とでかけたり、公園を散歩したり、あの部屋で引きこもっていたり、しているような気がする。それくらい現実感がない。遠く離れた場所にいることが、まだ信じられない。

 

一週間試験やなんやかやで忙殺されていたうえ6日が祝日で買い物など出来ないことも多かったので、最後の日はもう分刻みだった。図書館から借りていた本のコピーと返却、友達とお茶、サマーコースのための買い物、荷造り、荷物の発送、片付け、ごみ捨て、掃除。ようやく全部終わったのは午後9時。からっぽの部屋を何度か振り返り、最低限とは言えかなりの量の荷物を抱えて、待ち合わせ場所へ急いだ。パブでいつものようにとりとめのない話をして、男の子たちを歩いて寮まで送り(何故だ)、お別れ。ホテルへ帰り着いたときにはもう午前3時を過ぎていた。

 

さみしがる隙がなくてよかったんじゃないか、が半分、もう少しちゃんとさみしがりたかった、が半分。

 

 

 

春になってからは、すこしでも時間ができれば公園や植物園を散歩していた。どんどん濃度を増していく緑と、長かった冬を忘れる眩しい太陽。空気を思いきり吸い込むたび、細胞が入れ替わるような気がした。

 

 

 

ルンドでのことを細かく振り返ってまとめてしまうとそれで完結してしまうというか、できればずっとふわふわさせておきたい感情のまわりに明確な線を引いてかたちにしてしまう気がするので、あまり書かないことにする。とにかく、あの美しい小さな町でまとまった時間を過ごせたのは幸運だった。そのなかで色々な人に出会えたことも。つらかったあれこれを、やさしい思い出がしっかりと包んでいる。

 

蓄えた10ヶ月分の日常は、これからもあの町とわたしを繋ぎつづける。すこしずつ消費しても、零しても、薄まっていっても、きっとなくなることはないはずだ。

 

 

 

10日間ほど東欧を旅していた友達から返してもらった本は、カバーがぼろぼろになり、中の紙も反っていた。何したらこうなるの、と驚いて聞いたら、リュックの外側のポケットにさしてたんだけどずっと雨だった、特にプラハが大雨だった、と言う。そういえば、とニュースで見た地下鉄の駅が水没しているプラハの写真を思い出した。なるほど、あれか。ぱらぱらとめくると、飛行機の半券がはさまっていた。わたしと同じ癖だ。

 

プラハの雨だよちょっといいでしょ、としゃあしゃあと言って笑うので、こちらも笑ってしまう。悔しいけれど、たしかにちょっといい。半券は、ぼろぼろにしたかわりに(と言ってはなんだけれど)はさんだままもらうことにした。あらためて見てみるとマルメからストックホルム、ストックホルムからヴィスビィまでのものが綴りになっている。貸したのは随分前だから、ゴットランドにも持っていったのかもしれない。

 

そういえばわたしはこの本を、ストックホルムからタリンに向かうフェリーのなかで読んでいた。どれだけ傷んだとしても、ふたりの人間と長い距離を旅したこの本はもしかして幸せかもなあ、と、思う。

 

上手く説明できないけれど、わたしが何より大切にしたいのは、たぶんこういうものとこういうことだ。

 

 

誰にもどこにも吐き出せなかったことを迷った末に言葉にして、それなりに整理がついた気がした。感情の濁流にのまれるような瞬間がときどきやってくるのは、大人になってもあいかわらずだ。他人にも自分にもなるだけ誠実でいるために何をしたらいいのか、どれが正解なのか、そのたびに死ぬほど考えるけれど答えは出ない。

 

口にださないほうが、誰かに聞かせないほうがいいことはもちろん沢山ある。けれど、自分自身を、誰かとの関係をそれ以上歪ませないために、嘘を言わないために、あえて言葉にして昇華させたほうがいいこともたぶんある。そういうことを正しく選べるのが大人だと、思う。今回は正しかったと思いたいし、それをこれから証明しないといけない。

 

それにしても、感情の起伏が少ない人が本当に羨ましいよ。。まだまだ修行が足りないわ。

 

 

一昨日からは、中央スウェーデン・ダーラナ地方にある工芸学校のサマーコースに来ている。山奥で念願の機織りだ。朝8時から夜8時までずっと同じコースの人たちと先生と一緒にいるので(お茶休憩や食事の時間はあるけど、結局みんな一緒に食べるのでひとりになることはない)、スウェーデン語フル回転。ルンドでもこんなに一日中絶え間なくスウェーデン語を喋っていることはなかったような。いまのところは作業というよりそれに生気を吸い取られている。

 

ちなみに機織りは現在縦糸地獄。うーん、先は長い。

 

 

 

寮の部屋はそれぞれにスウェーデンの地域の名前がついていて、わたしの部屋はスモーランド。確かにそれらしい雑貨が置いてある。

 

2週間弱のここでの生活を、まずはめいっぱい楽しみたいです。

31/05/2013

 

 

 

 

 

 

 

 

バルト海に浮かぶ島、ゴットランドにいる。西岸にある町、ヴィスビィに2泊。ルンドを離れる6月8日を前に、課題や試験、荷造りを全部いったん置いて、ともかく束の間なにもかもを忘れようとここへ来た。

 

昨日は霧におおわれていたヴィスビィだけれど、今日は雲ひとつない晴天。何日かぶりにたっぷり眠って昼前にようやく起き出し、町を歩き、教会を訪れ、植物園をぶらぶらして、高台から町を見下ろし、カフェで休み、廃墟でぼんやりと時間を忘れ、海沿いの遊歩道を散歩した。まあつまり、なにもしなかった。特別なことはなにも。

 

結局すこしの間もなにひとつ忘れることができない自分は、あいかわらず不甲斐ない。けれど、この町はどこへ行っても泣きたいくらい美しくて、穏やかで、優しかった。包むようなおおらかさと、独特のリズム。風景がどんどん染みて、そのうち体のふちが溶けて幽霊みたいに透けていきそうだった。心の底から、幸せな一日だった。

 

 

 

初めて訪れた町ではまず、居心地のいいカフェを探す。どこにいても一日一杯、かならずコーヒーを飲むからだ。エネルギー摂取。その一杯にすがるようにして、一日を過ごすこともある。

 

 

 

海辺の遊歩道は昨日今日と、随分歩いた。何往復したか忘れてしまったくらい。海沿いの町で暮らしたことのないわたしは、こういう風景(が、日常であること)にとても憧れている。

 

 

去年から、ぽっきり折れてしまいそうなときになんとなくわたしを救ってくれたのはいつも、海辺の小さな町だった(自分で旅先を選んでいるわけだから、きっと偶然でもないんだろう)。マントン、スランデュドゥノ、シッチェス。その三つの町の記憶は大切にならべて置いてある。机のうえのスノードームみたいに、いつでも見られるように。ヴィスビィもわたしにとってそういう町になるだろうな、と、思う。

 

明日の朝にはフェリーでヴィスビィを発つ。あとたった一週間の日常が、ルンドで待っている。

17/05/2013

 

最近身のまわりに加わったもの、について。

 

 

 

以前の携帯が壊れ、さんざん悩んだ末にやってきたSIMフリーiPhone(と、そのケース)、

 

 

 

誕生日にもらった腕時計、

 

 

 

リサイクル素材のA4ポーチはざっくり紙類や教科書を突っ込む用、

 

 

 

ベルリンの蚤の市で買ったネックレス、

 

 

 

ロシアのお土産ものの小箱、

 

 

 

財布に入れたままにすることにした10ズウォティ札と50ルーブル札、

 

 

 

それから、スウェーデンのアーミーパンツをリメイクした鞄。

 

 

ものは持たないほうが身軽だという気はするし、何を持ったって結局違いは微々たるものだという気もするし、そもそも沢山のものが買える状況にはないけれど笑、それでもやっぱり持っていたいものとの出会いがあった4月5月。過ぎていった鮮やかな時間の香りを、こうしてすこしだけ連れて歩いていく。

05/05/2013

 

こどもの日。Botaniska Trädgårdenで、お花見をしてきた。数は少なかったけれど、日本らしい桜がふわふわと咲いていた。芝生にブランケットを敷いて座って、アイスクリームと、皆で持ち寄ったお菓子やサラダやソーセージを食べた。暖かく、爽やかな午後だった。

 

 

ルンドへ来ていちばん予想外だったのは、日本人の、それも日本の大学からの交換留学生の子たちが沢山いたことだった。わたしの日本での母校と特別な協定を結んでいるらしく、そこから来ている子たちだけで20人近い。そのほかの大学から来ている子を合わせると、たぶん30人を超える。ロンドンでの2年間をほとんど日本人の集まりには参加せずに過ごしたわたしには、くらくらするほど大きなコミュニティだった。

 

日本からの交換留学生は、ほとんどの子がいま20歳か、21歳。出会ったときにはまだ10代の子もいた。信じられない年の差だと思ったし、正直なところどう接したらいいか最初はわからなかった。自分の年齢を口にして、気を遣われるのが怖かった。年齢は違っても同じ学生なんだから気にしないで、とは言ったものの、差は厳然とそこにあるのだ。だって10歳も違うんだから。

 

そうしてまだ皆との距離をはかりかねていた8月末、イントロダクションコースの試験の帰り道に沢山の子たちと一緒になった。そのときひとりの男の子が、これから友達の家へ遊びに行くのだと言って、わたしを誘ってくれた。その日のことはいまでもほんとうによく覚えている。5人でなりゆきで生地からピザをつくって食べ、中庭で遊び、アイスクリームを食べ、家主のギターに耳を傾け、もうひとりの家主は昼寝をはじめた。よくわからない写真をたくさん撮って、晩ごはんにインドカレーを作って食べた。帰ってきたときには、もう日付が変わっていた。

 

 

 

沢山ほかの子もいるなかでどうして彼がすでに年齢が離れていると知っていたわたしに声をかけたのかは、いまだによくわからない。きっとたいした意味はなかったんだろうし、向こうにしてみたらどうだっていい話だと思う。それでもわたしはずっとひっそりと感謝している。皆の繋がりのなかへ踏み込むことになったあの明るい午後を、彼は作ってくれた。

 

それから、日本人の子たちとは大学で会ったときに話をするようになった。そのうち何人かの女の子が誘ってくれるようになって、学校のそとで待ち合わせてお茶しに出かけるようになった。あの日きっかけをくれた男の子とは、一緒にサッカーを観たりするようになった。

 

10歳は大きい、といまでも思う。話をすればするほど、その差は感じる。けれど、それをなんとなく消化できるようになった。気にしない、とかじゃなくて、10年前のわたしではなく今のわたしで、自然に目線を合わせて、すくなくとも何人かとは接することができるようになった(気がしている)。彼らと話をするのはいつもとても愉しい。

 

皆には、帰ったら“日本の大学生”としての生活がある。わたしがかつて通った、もう戻らない場所。バイト、サークル、シュウカツ、インターン。懐かしいフレーズに、さわさわと撫でられるような寂しさを感じる。彼らには明確に帰る場所がある。同世代の人たちのメインストリームのようなものをすでに離れたわたしは、一瞬交わった違う世代の彼らからも同じように離れていくのだ。たぶん、時間を追うごとに。

 

けれど、それでもわたしは、皆に会えてよかったと思っている。若さにあふれた、つるつるつやつやした、魅力的なひとたち。こういうことを勝手に書くのもまあ気持ちわるいとは思うんだけれど笑、あの子やあの子が、留学先としてルンドを選んでここにいてくれてよかったと素直に思う。友達でもお姉さんでも留学先にたまたまいた変わった人でも立ち位置はなんでもいいけれど、願わくば数年後にも彼らにとってわたしが、遠い遠い世界の人になっていませんように。互いに違う時間を重ねても、ルンドでの1年が生んだ細い糸のような繋がりを保っていられますように。

 

 

今日お花見をしていたら、偶然別々に来ていた友達に会った。一緒にいた子たちに紹介してもらったのだけど、冗談めかして「わたしのお姉さん」と言ってくれたのが、なんだかとてもうれしかった。

 

スウェーデン人やそのほかの国出身の友達もルンドでは沢山できた。つらいことも多かったけれど、出会いにめぐまれた8ヶ月だった。あと1ヶ月。会いたい人に、できるだけ多く会っていたいと思う。

26/04/2013

 

 

 

 

 

2013年4月26日、実在したベルリン。

 

 

色が、かたちが、その連なりが、意識もせずに捨ててきた選択肢の集積が、いつかまちを吞み込むのかもしれない。