04/04/2013

 

これと似た風景、どこかで見た、と思った。だけどどこで見たのかがどうしても思い出せない。長々と考えて、ようやくわかった。シムシティ。ほとんどやったことのない、あのゲームの世界だ。

 

 

グダニスクからワルシャワまでは、電車で6時間以上かかる。時間が限られているなかでそれでもグダニスクを旅程に入れたのは、もちろん航空券の事情や、複雑な歴史をもつグダニスクの町に興味があって外したくなかったというのもあるけれど、なにより電車に乗っていたかったからだった。移動時間は長ければ長いほどいいと言い切るくらい、わたしは電車で過ごす時間を愛している。特に、東欧のなだらかな土地を走る、座席がコンパートメントになっている古い電車が本当に本当に好きなのだ。

 

 

 

グダニスク駅に着いたのは朝7時。電車はワルシャワ経由、クラクフ行き。これだけで胸高鳴る。

 

 

 

電車ではだいたい、ぼんやりと窓の外を眺めながら音楽を聴いたり、本を読んだり、お菓子を食べたり、まどろんだり、なにか普段考えないようなことを考えたりして過ごす。もともとひとり遊びが得意なうえ、電車に乗っていれば何もかもがとくべつになるので、いつまでそうしていても飽きない。

 

 

わたしの同級生には、ポーランド、それもワルシャワで育った子が3人いる。3人ともとにかく洒落ていて、いい具合に力が抜けていて、シュールなものが好きで、力強いけれどどこか翳りのある音楽を聴き、本をよく読む。だから、わたしにとってワルシャワはずっとそういうイメージのまちだった。

 

 

 

ワルシャワ中央駅に着いて宿に荷物を置き、まず向かったのはTarabukというブックカフェ。Biotope Journalさんの「ポーランドで書店」という記事(Link)を読んで、ここだけは必ず行くぞ!と意気込んでいたのだった(わたし、昨年秋からBiotope Journalさんにすっかりハマっていて、特に毎週日曜のメールマガジンはお昼ごろからまだかなーまだかなーとそわそわ待つくらい楽しみにしているのです)。記事で見た通り本当にすてきなお店で、本を次々めくったり、なにやら話し込んでいる人たちをソファーに沈んで眺めたりしていたら、飛ぶように時間が過ぎていった。

 

記事のなかのヤコブ・ブラート氏のインタビューに、“この店では、必ずしもすべての人が本を読んだり買ったりしなくとも良いと思っています。私にとって文化とは、単に本を読むということに限りません。”という言葉がある。自分に重ねるのは変かもしれないんだけれど、インタビューを読んで実際お店へ行って、なんだか目が開いたような気がしたし楽になった。両親から本を読めと言われて育って、初めての北欧旅行でまったく本を読めなかった口惜しい思いを原動力に語学をはじめたわたしは、本に対する畏怖の念がどうしても捨てられず、「読むこと」にも「持つこと」にも固執してしまう。もちろんそういうのが全部わるいわけではないしむしろそれがなくなったら駄目な気もするけれど(すくなくとも、わたしはことばを勉強しているわけだから)、一方で、もっと軽やかでありたいとずっと思っていた。

 

ここで過ごした時間は、なんだかひとつの答えみたいに、すっと胸のなかで溶けていった。知識と愛情を持って、でもざっくばらんに、緩やかに楽しめばいいじゃない。

 

 

 

注文したりんごのケーキは、どこかなつかしい味がした。

 

そしてTarabukは、友達を通じて見ていたワルシャワ、そのものだった。ゆったりと飾らなくて、でもどこかエッジがきいている、思い描いていたワルシャワ。そのことが、とてもうれしかった。

 

 

ワルシャワの旧市街は、宿からTarabukを挟んで反対側にあった。散歩にちょうどいい距離なので、お茶を飲んだあと、ぶらぶらと歩いていく。

 

 

 

旧市街は、想像していた以上にがっつり歴史地区だった(リサーチ不足甚だしくてごめんなさい)。13世紀からの歴史を持つここも第二次大戦でドイツ空軍に徹底的にやられてしまい、戦後もとの煉瓦も使って懸命に再建されたのだとか。ワルシャワの、美しいもうひとつの顔。

 

 

 

イースターの残り香。ポーランドの人、なんかイースター過ぎても飾り片づけてない気がする。なんでだろ。

 

 

さて、翌日にはもうひとつの、楽しみにしていた町へ。ワルシャワから電車で片道2時間半ほどのところにあるトルン。コペルニクスの出身地として有名な、中世の趣が残る町。

 

 

ゴシックの旧市庁舎は14世紀の着工だそうだけれど、ここも幾度となく戦火にさらされたらしく、現在の建物は再建されたもの。塔を破壊したのはスウェーデン軍だ(スウェーデンと反スウェーデン同盟との間で1700年から20年以上にわたって続いた「大北方戦争」中のことで、この戦争は最終的にはスウェーデンの敗北に終わるのだけど、前期に優勢だったスウェーデンはポーランド国王を廃位に追い込んでいる)。新しい町を訪れるたびに、戦争を重ねたヨーロッパの歴史のなかで犠牲を払いつづけたポーランドの像がすこしずつ立体的になっていくような気がして、胸が詰まる。

 

 

 

鳥が群れをなして、広場のうえを横切っていく。この町はその昔ドイツ騎士団の根拠地だったこともあり、ドイツ風の建物が目立つ。この広場に立って真っ先に連想したのは、北ドイツのリューベックという町だった。

 

 

 

聖母マリア教会。ここも外観はふつうの(とは言えそうとう大きいので、ふつうの範疇ではないのかもしれない)ブリック・ゴシックだけれど、内装はこれまで見たどの教会にも似ていない。とにかく絢爛、ロマンチック。こてっとしているといえばそうなんだけれど、見る人をうっとりさせる繊細さがある。

 

信仰のないわたしは、教会を巡りながら、信仰のある人間について考える。ここを作ったひと、ここで祈るひと。淡く想像することしかできない世界がそこにある。ヨーロッパの複雑に編み込まれた基盤の端っこをつかむために、その一方でわからないことに誠実でいるために、宗教と直接の関わりを持たないわたしは建築としての教会をつぶさに見て、それから考えることしかできない。まだ足元はぐらぐらしていて、目的地は遠い。

 

 

 

トルンのお店のディスプレイもまだイースター。アメリカではイースターといえばうさぎだと聞くし、スウェーデンでもうさぎやひよこの形のお菓子をたくさん見るけれど、ポーランドはほかの国に比べてひつじ勢力が強い(気がする)。あちこちのショーウィンドウに鎮座しているひつじ。和むわ、、、

 

 

 

ヴィスワ川沿いを散歩。ねむたげな色彩とゆったりした流れ。

 

 

グダニスクからワルシャワまでの電車は朝早かったこともあってすいていたけれど、ワルシャワ−トルン間は往復とも混んでいた。定員8名のコンパートメントがぎゅうぎゅう。コートかけに吊るしたダウンを背中でつぶして、バッグを膝にのせて、あまり動かないようにじいっと本を読んでいた。

 

ポーランド人はコンパートメントのなかで、もともと一緒に乗っているんじゃないかぎりほとんど話さない。それに加えて英語を話さない人も多いので、電車のなかで会話が弾むわけではなかった。それでもまわりの人たちはさりげなく荷物の上げ下ろしを手伝ってくれたり、行き先を聞いてくれて、降りるときに教えてくれたりした。

 

 

 

もう4月だけれど、窓の外には、雪の世界がつづいている。

01/04/2013

 

 

ふたつの試験を終え、羽をのばしに飛んできたグダニスクは、ルンドよりも寒かった。

 

昨夜から降りはじめた雪は、まだ止む気配がない。

 

 

スウェーデンとポーランドは近い。わたしが住んでいるルンドの隣町マルメにある空港からポーランド北端のグダニスクまでは、飛行機で45分。チケットは2千円だった。バルト海を挟んでいるので隣国という感じはしないけれど、実は2都市は400kmほどしか離れていない。離陸してシートベルトのサインが消えてしばらくしたら、もう着陸。日常と旅行の境界を越えられないまま、国境を越えた。

 

空港から210番の路線バスに乗り、中央駅を目指す。車窓からはくすんだベージュの家々と茶色の森、アスファルトと薄く積もった雪、それからどんよりとした空が見えた。彩度もコントラストも低い風景。おそろしく気軽に飛んできてしまったので、スウェーデンとのギャップがのみこめない。ときどき現れる鮮やかな看板広告は別世界から来たものみたいで、通り過ぎてもしばらく目の奥に残った。

 

 

 

中央駅前に着いたのは午後7時。イースターサンデーなので、店はほとんど開いていない。駅の中にあるマクドナルドで夕食を買って、宿へ向かった。

 

 

泊まっている部屋はとても快適だけれど、屋根裏なので窓は小さくて、向かいの家の頭しか見えない。 だから朝、外に出て積もっている雪を見たときにはとにかく驚いた。前夜とはまったく違う風景に面食らって、現在進行形で降り積もる雪をしばらくただ眺めていた。

 

まずは中央駅へ行き、明日のワルシャワへの切符を買う。朝7時7分グダニスク発、13時26分ワルシャワ着の電車の2等席。窓口の女の人と筆談をして無事指定席の切符を手に入れ、外に出ると、雪は勢いを増していた。

 

 

 

運河を目指して旧市街を歩いているあいだにも、雪はどんどん強くなっていった。髪にもストールにも睫にも雪がまとわりついて、溶けきらないうちに重なっていく。足元もあまりよくないので、とりあえず運河沿いのカフェで体勢を立て直すことにした。イースターマンデーで営業しているカフェも少なかったので手近なところに入ったのだけど、注文したペンネとカフェラテはどちらも本当に美味しくて、それだけでほっこり救われた。

 

 

 

白く霞む運河。実際は写真よりずっと霞んでたよ笑。風もそれなりにあったので、橋のうえでは目を開けているのもつらかった!カメラをストールで隠しながら、なんとかかんとか撮影。

 

 

 

暖かいカフェを出て、雪に目を細めながら歩いていたら、教会にしては随分メロディアスな鐘が聞こえてきた。鳴りつづけているので音を目指して歩いていく。鐘は、目抜き通りにある旧市庁舎のものだった。鐘の音と、立ち話をしている人の声と、鳩の羽の音。しんしんと雪が降るイースターマンデーの静かな町の、ささやかなざわめき。

 

こういう瞬間のために、わたしはいちおう定住している場所を離れてひとりで出かけてゆくのだ、と思う。頭がからっぽになって、涙で視界がにじむ。いつも数えきれないほどある「見たいもの」を、こういう思いがけない贈りもののような一瞬は、かるがると超えていく。

 

 

 

背の高い建物が旧市庁舎。無彩色や落ち着いた色の建物が多いグダニスクだけれど、目抜き通りはやっぱり華やかだ。

 

旧市庁舎は、いまは歴史博物館になっていた。グダニスクには、ポメレリア、ドイツ騎士団、ハンザ同盟、プロシア連合(後にポーランド王国の自治都市になった)、ロシア、プロイセン、国際連盟保護下の自由都市、ナチスの支配下、そしてまたポーランドとしての、めまぐるしい歴史がある(あまりにもめまぐるしいので、なにか書き逃しているかもしれない)。この旧市庁舎の着工は1379年、この町がハンザ同盟に正式加盟したばかりの頃で、尖塔が完成して今みたいな姿になったのは自治都市として特権を持っていた黄金時代、16世紀のこと。それから400年後、第二次世界大戦でここは決定的に破壊されてしまった。いまの建物は、そのあと復元されたものらしい。

 

 

 

評議室だった「赤の間」には、16世紀の美しい暖炉が奇跡的に残り、17世紀の絵画が飾られていた。

 

自由を謳歌して、衰退し、周辺国の思惑に翻弄されて、廃墟になり、そして生き返った町を、この市庁舎は知ってる。

 

 

 

雪が止む気配もないので、目抜き通りにあるお店でお茶を飲むことにする。今日2杯目のカフェオレと、りんごのケーキ、両方で12ズウォティ(約350円)。ケーキは量り売り。お姉さんが、どれくらい食べる?と聞いてくれて、器用に切り、お皿にのせてくれた。

 

 

 

自分で言うのも何だけれど、わたしは超の付く晴れ女だと思う。特に2年前にヨーロッパへ来てからはかなりの日数をかけて沢山の国のあちこちの町を巡っていながら、天気がよくなかった記憶がほとんどないのだ。いちにち雨に降られたのは雨季ど真ん中のリスボンへ行ったときと晴れの日が少ないことで有名なベルゲンへ行ったときぐらいなので、そのふたつの町には「雨の町」という強烈な印象があるほど。冬にどこかへ行くこともそれなりにあったけれど、本格的な雪に見舞われたことはいちどもなかった。

 

だからグダニスクはわたしにとって、初めての「雪の町」になった。こうして美しい記憶になるなら、雪もわるくない。

 

 

 

窓マニアなのでグダニスクでもあちこちで窓を撮っていました。

 

 

明日はこの国の首都ワルシャワまで、6時間を超える長旅。ワルシャワは勿論だけれど、大好きな電車で過ごす時間を、とても楽しみにしている。

23/03/2013

 

雪の降る毎日。これから10日間の予想気温もずっと氷点下だけれど、春はいったいいつ戻ってきてくれるのだろう。

 

部屋のなかだけでも春らしくと、植物を買い足した。アイビーは毎日新しい葉をつけて、どんどん伸びている。

 

 

今週は課題のショートフィルムづくりで大忙し。日中はそれぞれ授業があるので夜から友達の家に集まって、映像編集したり、原稿つくったり、録音したり。 映像作りに詳しい人が誰もいなかったから結構めちゃくちゃだったけれど、皆でああでもないこうでもないとわいわい準備して、なんだか文化祭みたいだった。楽しかったよ。

 

来週はペーパーテストがふたつ。そこをなんとか越えれば、イースターが待っている。

 

 

 

あまり行ったことのなかったお菓子屋さんに帰る途中ふらりと立ち寄ったら、ブダペストの小さなお店のチョコレートがショーケースに並んでいた。大きなメーカーのものではないしもうなかなか食べられないだろうと思っていたので、突然の再会に驚いてしばらくぼんやりしてしまった。なんで、これがここにあるの。

 

ハンガリーでの休日を思い出す。すこし背伸びした、異国の味。

 

 

 

このところ、Joyce JonathanのSur mes gardesを通しでよく聴いている。ぽわぽわした声と発音。軽やかで可愛らしい曲もあればメランコリックな曲もあって、冬と春の隙間にとても似合う、気がする。

 

わたしはフランス語がまったくできないので、彼女が歌っている言葉は、意味から遠く離れたところにある。歌詞を知りたければ調べられるしきっと訳もすぐに出てくるだろうけど、このままでいい。5つの言語の波間でいつも“理解”を目指しているだけに、わからない音をわからないまま放っておける場所もほしいのかもしれない、と思う。べつに知らなくていいっていうのはなんとなく許されている気がするし、それはそれで美しい。

 

 

桜がもう満開だと聞いて、東京がすこし恋しいです。

10/03/2013

 

3月1日、30歳になった。

 

 

誕生日はたまたま学校が休みだったので、コペンハーゲン近郊にあるルイジアナ近代美術館で過ごすことに前々から決めていた。天気を心配していたのだけど、ふたを開けてみると今年いちばんの晴天で(母にそうメールしたら、「極め付きの晴れ女ですねえ」と返事がきて笑った)、ほんとうに春が来たように暖かく気持ちのいい日だった。新しいカーディガンを着て、電車に乗って、いそいそ出かけていった。

 

展示をじっくり見て回り、彫刻が点在する中庭を散歩して、カフェで海を眺めながら昼ごはん。凍った池のほとりを歩き、ミュージアムショップでグラスをふたつとポストカードを買い、また中庭へ出て海を眺める。愛してやまない美しい美術館での、静かな、完璧な休日。

 

 

 

展示室のすぐそばにある休憩スペースからも海と、その向こうのスウェーデンが見える。

 

 

 

企画展はポップ・アート・デザイン、それからウォーホルの初期ドローイングなど。ポップアートのほうはどうかなと思っていたのだけど、アート作品はもちろん、インテリアから生活用品まで多面的な展示でなかなか面白かった。こちらにもウォーホルの大きな作品が数点。ウォーホル三昧だった。

 

夕方からは、日本人の友達ふたりが家に遊びに来てくれた。喋り、晩ごはんをつくって食べ、喋り、ケーキを食べてまた喋る。楽しくてすっかり時間を忘れ、気がついたときには午前2時になっていて驚いた。

 

幸せな誕生日でした。

 

 

ただその日を通過するだけの話で別にどうってことないと思っていたけれど、実際に30歳になってみると案外気持ちの変化があった。20代の崖っぷちにいたところを救われたような気がなんとなくするし、べつに過去にさよならするわけじゃあないけれど、これまでの10年を「20代」というひとかたまりのものにできるのが嬉しい。10年という長いものさしを横に置いて自分のことを振り返る作業は、ほろ苦いと言えばそうだったけれど(幼かった自分のことを思い返すときはいつだってそうだ)、なにより清々しかった。それなりの覚悟を持って、それなりのものを追いかけて、それなりのことをやった10年だった、と思う。それだけで充分だといまは思える。

 

ロンドン行きを決めたのは27歳のとき。いまさら言うことでもないけれど、考えて考えて考え抜いて出した結論だった。いくつか手に入れた選択肢の中から、結局、いちばん厳しいものを選ぶことにした。その日のことを忘れたことはないし、これから先もぜったい忘れない(だって、その後何度も何度もあの日の自分を呪ったのだから)。夢という言葉が好きじゃないわたしだけれど、やっぱり夢だったのだと思う。ずっと抱いていた、北ヨーロッパのあれこれについてしっかりアカデミックな勉強をしたいという思いと、世界で評価されている大学でネイティブの学生と対等に勉強がしてみたいという(ややミーハーな)思いを、同時に叶えた。それからの2年は英語力すらも中途半端だったわたしにとって挫折に次ぐ挫折の日々だったけれど、それを通り抜ける前の自分はいまでは想像もできない。ルンドでの生活も合わせた20代の最後3年の濃度は、その前の7年をうっかり塗りつぶしてしまうくらいのものだった。

 

この年齢になっても勉強していることへの後ろめたい気持ちはずっと変わらないしこれからも消えないだろうけれど、遠く霞んでいた目標に手が届くようになった手応えを、いまはとにかく大切にしたいと思っている。わかりやすく花が咲かなくてもちゃんと根が張るように、なるだけ水をやってきた。わたしのひとつの柱になっている語学は、終わりのないマラソンのようでときどき底なし沼にも感じるけれど、こういうときわたしを救ってくれる。費やしてきた果てしない時間を圧縮して、目の前に差し出してくれる。

 

もしほかの道を選んでいたらとはもう考えない。30代最初の日々のこの思いを、10年間忘れずにいようと思う。

03/03/2013

 

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20代最後の小さな旅。行き先に選んだのは、ストックホルムと、タリンだった。

 

雪が残っているあいだにタリンへ行きたい、と思っていたところに、ストックホルムータリン間の安いフェリーチケットを見つけた。実はストックホルムも前回の訪問は5年半前。いずれゆっくり行くつもりでいたけれど、寄ってからタリンへ行くのもわるくない。そうして、あっさりと週末の旅行が決まった。

 

今年に入ってから随分色んなところへ行っているけど、去年は秋以降どこへも行かなかったし(正確に言うと行けなかった)、旅行というのはタイミングだなあとつくづく思う。

 

 

ルンドからストックホルムまでは、スウェーデン国鉄の特急列車で4時間半かかる。南北に長いスウェーデンの南端に位置するルンドからは、ストックホルムはそれなりに遠い町だ。スウェーデンで3番目に大きな町のマルメまでは電車で10分、デンマークの首都コペンハーゲンまでが50分なのでどうしてもそちらへ行くことが多くて、なかなかストックホルムへ出て行く機会はない。

 

ストックホルムはこれまで二度訪れた。わたしにとってはヨーロッパでもっとも好きな町のひとつで、旅行先として誰にでも勧められる町でもある。新しいものと古いものが美しく混ざり合っていて、見るものも買い物するところも多いのに穏やかな雰囲気を保っている、バランスの良い町。

 

木曜の授業を終えてから電車に乗り、深夜23時40分、ようやくストックホルム中央駅に到着。その日は駅近くのホステルで眠って(コーヒーショップが地下の空き部屋を使って片手間でやっている宿だった、フロントが閉店後のカウンターで、iPadで何もかもやっていたので笑ってしまった)、翌日は朝はやくから動きはじめた。

 

 

 

ストックホルムは、ひさしぶりという感じがあまりしなかった。あいかわらずガムラ・スタンは美しく、広い新市街も、南ヨーロッパのような華やかさはなくても感じが良い。行く店行く店素敵なものばかり置いていて泣きたくなる(なんで泣きたくなるって、そりゃ物価が高くてそうそう買い物できないから)。氷が浮く運河にはオフシーズンで休んでいる遊覧船が、並んでゆったりと浮かんでいた。

 

 

 

公共交通機関もほとんど使わず、広い範囲をとにかく歩き回る。ストックホルムにいられるのは夕方までだし、昔の記憶を頼りに行きたかったところへ順番に行って、郊外など時間のかかるところは次回に積み残すしかない。そんな中で町の風景をすこしでも多く楽しむには、移動を徒歩にするのがいちばんだと思ったのだ(ややマッチョな発想ですね)

 

午後2時ごろにはもう随分歩き疲れていた。カフェに入り、ざわざわした空気のなかでバニラクリームのたっぷりかかったブルーベリーパイを食べる。紫色のベリーがゆるいクリームにマーブル模様をつくるのを眺めながら、スウェーデンに来てもう半年になるのにあらためて、スウェーデンだなあ、と思ったりしていた。

 

 

 

17時45分、船は静かにストックホルムを離れた。携帯電話は、すぐに使えなくなった。キャビンは4人のドミトリーなのに、ほかに誰もやってこない。こんな時期にひとりでタリンへ行く人は、そう多くないのかもしれないな、となんとなく納得する。

 

夕食はお金がないのでピザにした。きちんと温めてくれたし、なかなか美味しかったけれど、10分ほどであっさりと食べ終わってしまった。船のなかを歩くのにも飽き、景色を眺めようにも真っ暗なので、もうキャビンに籠ることにする。まず途中になっていた「感性の限界」という新書を読み終え(デフォルメされた色々な立場の人たちの仮想シンポジウムだった)、year projectのために軽く論文を読んでメモをつくり、村上春樹「遠い太鼓」にどっぷり浸かる。ヨーロッパで暮らした3年間のエッセイ。ときどきくすくす笑う。わたしは実は長編小説以外の村上春樹が好きなのだけど、ファンの人はこういうエッセイをどう思っているのだろう。

 

深夜になっても、近くの部屋の若者たちは騒がしく、上階のクラブの重低音も聴こえつづけていた。こちらもキャビンを音楽で満たして、ささやかに抵抗する。ようやく穏やかな眠りについたときにはもう、3時を過ぎていた。

 

 

翌朝。朝食はマドレーヌと、木曜に日本人の友達からもらったいちごミルク。すこし甲板に出てはみたけれど、体の芯にくる寒さと曇りのバルト海の退屈な風景にさらされて、すぐに引っ込んだ。荷物をまとめ、寝転がってまた本を読む。

 

10時45分、船は予定通りタリンに到着した。5年半前の港の記憶はぼんやりと頼りない。入国審査はなくなっていた。昔は来る度に審査があったから、わたしのパスポートはエストニアのスタンプだらけだっていうのに。

 

 

 

荷物を背負ったまま、旧市街を歩き、いくつかのお店に入ってみる(3泊とはいえ、わたしの荷物なんて軽い)。なつかしい教会の尖塔、城壁、町並み。それでも雰囲気はずいぶん変わっている。昔行った店は、もうほとんどない。土産物屋がますます増えている気がするし、どの店でも似たようなものを売っている。壁が昔より綺麗に塗られている一方で、道には客引きと、座り込んでカップを差し出す人たちが目立つ。そういえば通貨も、エストニア・クローナからユーロになっている。

 

まちが変わっていくのはあたりまえのことだ。それが悪いことだなんて思わないけれど、だけど、それでもすこし悲しい。わたしの記憶のなかのタリンは年々ひたすらに美しくなっていたのだから。

 

 

 

それでも、やっぱりここが好きだ、と思う。タリンへどうしても冬のうちに来たかったのは、ここを思い出のなかの美しいだけの町にしておきたくなかったからだ。夏しか来たことのなかったこの町へ、もういちど今度は冬に来て、また違う記憶を上乗せすることに意味があった。この旧市街の息遣いのような何かがわたしは好きでたまらなくて、そして、それが5年やそこらで変わる類のものじゃないことはわかっていた。たとえばお店が変わっても、ツーリスティックになってしまっても。だから飾られた思い出を守るより、この特別な町を生々しさというか分厚い実感をともなった像として、手元に引き寄せておきたかった。のだ。

 

 

 

昔上った教会の塔へもういちど上るのを楽しみにしていたのでいそいそ行ってみたのだけど、あっさりclosedと言われてしまった。外に出て見上げてみると、以前とたいして変わっていない簡素な足場に、雪がうっすら積もっていた。たしかにあれは危ないわ、そうだよなあ教会を増築していないならあのひどい足場のままだよなあ、と苦笑い。残念だったけれど、なんだかすこしだけ嬉しかった。

 

じゃあ、と以前写真を撮った、旧市街を見渡せた場所を探す。高台になっているところを歩き回って、ようやく見つけた。以前はオンシーズンの夏なのに閑散としていたこの場所もいまは人でいっぱいで、音楽を演奏している人がいたり、屋台のお土産物屋さんが出たりしていた。以前とは違う音を聴きながら、遠目には以前とあまり変わっていない風景を眺める。うすく雪が積もった赤や褐色の屋根が、とても美しい。

 

 

 

もっとも観光客が集まる場所のひとつ、アレクサンダー・ネフスキー大聖堂も高台にある。エストニアが帝政ロシアの支配下にあった1900年頃に建てられた、ロシア正教会の聖堂。いかにもロシア復古主義な外観なのだけど、エストニアの人たちはこの建物をどう思っているんだろう。

 

ところで、ここはいつもどこかを修復している気がします笑。今は真ん中の塔が修復中。

 

 

 

老舗のケーキ屋さんで休憩。ケーキかと思って注文したらほとんどメレンゲで面食らう(でも美味しかった)

 

 

 

タリンの旧市街は、良くもわるくも、普通の人たちの生活から浮いているように感じる。もちろんここで暮らす人も沢山いるけれど、町全体から見ると、ごくごく一部。高いところから旧市街を眺めると、その向こうにバルト海と、旧市街とはまったく違った色彩の町が見える。これがタリン。

 

この町を好きだと言いながら、実はわたしは本当に狭い範囲しか見ていない。そもそもエストニアを何度も訪れながら、タリンにしか行ったことがないのだ。空港へ向かう途中、新市街を眺めながら、もっと沢山のものを見たいな、見ないといけないな、とちょっと後ろめたさを感じていた。

 

 

コペンハーゲン・カストラップ空港からいつもの電車に乗る。本に没頭しているうちに、自分がいまどこにいるのかわからなくなってしまった。硝子に額をつけて、窓の外に目を凝らしても、手がかりがない。なにしろ暗い。目印になるような建物も、ほとんどない。

 

通り過ぎてしまったかといよいよ不安になった瞬間、“Nästa station, Lund, Lund”と耳慣れたアナウンスが聴こえた。ほっとするのと同じくらいがっかりして、自分で自分に驚く。終わってしまうのがとてもとても怖かった。そうは言っても、ただ電車を乗り過ごしたって、なんにも変わらないんだけれど。

 

わたしの20代最後の旅は、こうしてあっさりと終わりを迎えたのでした。

 

 

 

エストニア航空からの、小さな贈りもの。うん、思い返せば思い返すほど、愉しいひとり旅だったよ。

17/02/2013

 

2月8日、金曜日の朝6時、暖かい服を詰め込んだリュックを持って家を出た。その週の日曜から5日間下がらなかった高熱に体力を削がれて、げっそりとしていた。覚束ない足取りでなんとか飛行機を乗り継いで、北へ、北へ。降り立ったルーレオの気温は、マイナス17度だった。

 

北スウェーデン行きを決めたのは、ヨックモックという小さな町へ行くためだった。ヨックモックでは年1回この時期に5日間、サーミ人がマーケットを開いている。大学のyear projectで、観光客を呼ぶカルチャーイベントがサーミ人の伝統文化に与えている影響について考えてみようと思っているので(まだかなりざっくりしている)、これをどうしても取材しておきたかったのだ。

 

 

 

行きの飛行機ではさっぱり戻らない体調に苦しめられ、ひさしぶりに凄まじい眩暈を体験した。視界がジェットコースターにでも乗っているかのようにぐるぐる回り、飛行機のほうが揺れているのだと思って死ぬほど怖かった。それでもルーレオ上空からの眺めは、数時間の苦行を一瞬忘れるほどに美しかった。

 

 

土曜日。よく眠って多少回復した体を無理やり引き摺り、ホテルを出発。もう冬至を過ぎて随分経つけれど、朝7時の北スウェーデンは当然まだ真っ暗だ。ヨックモックまでは電車とバスを乗り継いで3時間の長旅。午前中に乗れる電車は1本しかない。

 

電車に乗って15分が経った頃、車掌さんがやってきて、ヨックモックへ行くのかと訊かれる。そうだと答えると、予定とは違うボーデン駅で降りて臨時バスに乗るように言われて驚いた。なんとボーデンの先で電車が止まっているらしい。前途多難。いつヨックモックに着けるのかわからないし、だいいち辿り着けたとしても、電車が夕方まで復旧しなければどうやってルーレオまで戻れば良いものか。引き返さないでおこうとは決めたものの、頭を抱えてしまった。

 

 

 

超悲観的だったわたしの予想に反して、ヨックモック行きの臨時バスはすぐにボーデンの駅前にやってきた。大きなタイヤのついたバスは、雪をものともせずにかなりのスピードで走る。車窓からはずっと、雪で松ぼっくりみたいになった木や、水蒸気がふわふわ上がっている川、いつか絵本で見たような赤い壁の小さな家が見えていた。夢と現実の境界。思いつづけてきた“北”が、そこにはずっと続いていた。

 

 

 

朝の光を受ける金色の木。すうっとまっすぐ立つ姿が潔くて、惚れ惚れしてしまう。

 

 

サーミ人はいま、ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、ロシアの4ヶ国の北部にまたがって住んでいる。細かく説明しだすと長くなるのでここでは割愛するけれど、独自の文化、独自の言語を持っている先住民族だ。ただ、ひとくちにサーミ人と言ってもかなり複雑で、たとえばトナカイの放牧のイメージで語られることが多いけれど実はそれが生業とはかぎらない(いま放牧をしている人が減っているというだけじゃなくて、もともとほかのことを生業にしているグループも多いのだ)。方言もいま生きているものだけでざっくり9種類あって、意思疎通ですら難しいペアもある。

 

国によって対サーミ人政策にはばらつきがあったようだけれど、基本的にはどの国でも、サーミとしての言わば西欧的なアイデンティティの確立は簡単ではなかったように思える。サーミは南からの入植者にくらべて貧しかったし、それぞれの国で同化政策も行われたし(1950-60年代になってようやく廃止された)、議会や独自の組織を持ったのも、誇りを持って文化を維持しようという流れになったのも、本当に最近のことらしい。

 

前置きが長くなってしまったけれど、もう400年も続いているヨックモックのマーケットは、その流れとともに最近はサーミのカルチャーイベントとしての性格が強くなっている。あちこちからサーミ人と彼らの文化に触れたい人たちが集まる、年に1度のお祭りだ。

 

 

 

ヨックモックは、気温マイナス27度だというのに、人でごった返していた。道の両脇にずらりとストールが出ている。建物のなかでもあちこちで工芸品を売っていたり、カフェをやっていたり、ミニコンサートが行われていたりして、寒さも忘れる高揚した雰囲気だった。遠方から来た人が多そうだけれど、民族衣装を着た人もちらほら見かける。

 

ただ、サーミ人の出店者の割合が年々下がっているのが問題のひとつだと論文で読んだけれど、たしかにそれを感じる場面は多かった。観光客としては、ここにしかないものにもっと出会いたかったな。いや、しっかり楽しんだけどね!

 

 

 

トナカイの皮の小さなバッグを迷いに迷ってひとつ買った。細かいところまで丁寧につくられていて、ボタンもトナカイの角で、とてもすてき。大切に使おうと思う。

 

帰りは以前日記やツイッターに書いた通り、やっぱり電車がまだ復旧していなくてなかなかとんでもないことになったのだけど、ちゃんとその日じゅうにルーレオに着けたし、それで十分。いやいや。ホント、無事帰れてよかったよ。

 

 

 

Sámi Duodji(サーミ人の手工芸品を扱う組織)には、読みたい本が沢山置いてあった。

 

考えれば考えるほどわからなくなる。民族って、アイデンティティってなんなの。なにが良いことで、なにが良くないことなの。何度も何度も、混ぜっ返して疑う。当たり前だけれどわたしが持ってるのなんて結局ぜんぶ刷り込まれてきた価値観で、やっぱりどうしたって一元的だ。

 

それでも、わたしはわたしを取り巻く世界から与えられた感覚で、サーミのひとたちの言語を美しいと思う。音楽も民族衣装も工芸品も美しいと思う。一昨年の夏北ノルウェーで会った若いサーミの男の子が言った「僕たちに国境はないよ」という重みのある言葉を、とてもとても美しいと思う。遠い東洋の国で生まれて、基本的には西欧的な価値観を是として育ってきた者として、その全部がずっと残っていてほしいと願う。のだ。

 

 

最終日はルーレオの近郊にある、ガンメルスタード教会街へ。ヨックモックの近くではなくてルーレオに泊まることにしたのは、時間が許せばここを見たいと思っていたからだった。13時には空港へ向かわないといけなかったし日曜日だったので心配していたのだけど、思っていたよりバスの本数があったので(といっても1時間に1本だけれど)、なんとか無事に行くことができた。

 

 

 

この町がつくられたのは15世紀のこと。教会堂を中心に、424軒(!)もの木造家屋が並んでいる。当時の北スウェーデンは教区がとにかく広大だったので、宗教行事となると遠くから泊まりがけで来る人が多く、その人たちのための宿泊施設として小さな家がこうして建てられたらしい。北スカンディナヴィアにはこういう町が至る所にあったとか。

 

真っ白な雪に、赤い木の壁が映える。建物の背が低いので、それほど大きくない教会がどこからでもよく見えた。 薄い膜越しに過去を見ているような、不思議な気持ちになる。600年近く前に、もうこういう風景があったのだ。

 

短い滞在だったけれど、皮膚がひりひりするような寒い日に、雪のあるときに、ここを歩けてよかった。

 

 

あれから1週間。相変わらず、授業と課題で嵐のような毎日を過ごしている。スウェーデン語、それからアイスランド語。いつも頭がいっぱいで、なかなか消化しきれない。

 

ここでの生活もあと4ヶ月になった。いまはできるようになったことを数えるより、もっともっとやらなければいけないことがある。行っておきたいところも、たくさんある。

 

これからよ。まだまだ。

09/02/2013

 

 

Murjekという駅で足止めを食った。乗るはずだった電車がキャンセルになったからだ。ほかに長時間待てる場所がないので、駅舎の狭い待合は人と荷物で混沌としていた。しばらく片隅でじいっとしていたけれど、すぐにいやになって、外へ飛び出した。

 

気温はマイナス21度。ひりひりする頬をストールでぐるりと覆って、ちいさく息を刻んで、静かな町を歩いた。

 

 

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ただの点になるはずだった町は、いちまいの壮大な絵のような、美しい記憶になった。

 

 

北スウェーデン・ルーレオにいます。詳しい話はまた後日。明日にはもう飛行機を乗り継ぎルンドへ帰るので、今日はしっかり眠って体力回復しなくては。38度を軽く超える熱が5晩続いたあのとんでもない風邪が、どうか戻ってきませんように。神様!

26/01/2013

 

ノスタルジックな町。オニャール川にかかる橋は糸のようにぴんと張って、渡る人の影まで繊細に見せていた。

 

 

ジローナへ行ってきた。バルセロナからは電車で1時間半なので、それほど離れていない。けれど驚くほどに、町の風景はバルセロナとは違っていた。

 

 

 

カテドラルは丘の高いところに建てられているので、広場のようなところから建物まで長い階段を上っていく。ファサードはバロック、側廊はゴシック。回廊などはロマネスク。ヨーロッパの大きな教会にはよくあることだけれど、膨大な時間をかけてあれこれ手が入れられているので、とにかく様式が混ざっている。それぞれ特徴のある装飾が美しく、じっくりと見れば見るほど愉しい。

 

このカテドラルの宝物館には、有名な天地創造のタペストリーがある。11世紀から12世紀にかけて織られたもので、世界でもそうとう古いものらしい。旧約聖書を題材に人物や動物の模様が織り込まれていたのだけど、どこかユーモラスで可愛らしかった。織られたときには鮮やかだっただろうタペストリーはもう褪せてやさしい色になっていたけれど、本当によく受け継がれてきたものだなとしみじみ眺めた。

 

ジローナは、折り重なる歴史と共存している町だ、と思う。色々な民族がかわるがわるやってきて戦いの場所になることも多かったらしいこの町だけれど、今でもローマ人の遺跡がわずかに残り、12世紀から15世紀にかけてのユダヤ人コミュニティの足跡がある。そしてはるか昔に建設がはじまり、その後増幅されたり壊されたり再建されたりしてきた城壁がある。いかにもカタルーニャらしい、褐色の屋根と色とりどりの壁を持つ家もたくさんある。その旧市街がやんわり核のようになって、今暮らしているひとたちの生活が広がっている(ような気がした)

 

 

 

地図も見ないでただ歩いていたら不意に、町を見下ろせる、なにもない場所に出た。何人かが景色に背を向け、手すりに凭れてぺたりと座っていた。きっとここのひとたちで、町なんて見慣れてるんだろう。彼らを横目に眺めたジローナの風景は、美しいというのとはちょっと違うのかもしれないけれど、なにか胸に迫るものがあった。ちょうどお昼で、澄んだ鐘の音がながく響いていた。

 

 

 

細い路地を歩きながら思い出したのは、何年も前に行ったクロアチアのシベニクという町だった。記憶をゆっくりと辿ってみると、たしかによく似ている。旧ユダヤ人街の路地の暗さ、壁をかたちづくる石、細くつづく階段、高い場所にある教会。あの日乱れ咲いていた藤の花の匂いがよみがえって、思わず足を止めた。

 

これまで訪れてきたたくさんの町の風景は、わたしの中に複雑に絡まり合って存在している。端を引っ張ると、連なった記憶がするすると、どこまでも出てくる。普段はいっしょくたに箱のなかに詰め込んでいるけれど、ひとつの町だって忘れていない。わたしに才能があったらこれを全部自分のために言葉にするのに、といつも口惜しく思っている。

 

 

 

ジローナに着いてまず驚いたのは、カタルーニャの旗の多さだった。バルセロナでも1年半前と比べて増えたなあと思ったけれど、ジローナはその比ではなく、どこへ行っても旗が目に入る。あとからわかったことだけれど、ジローナは特に独立派の多い町でデモが行われることもあり、市長も独立派らしい(演説では他地域との経済の格差を独立を推進する理由に挙げ、「スペインはカタルーニャから毎秒512ユーロを受け取っている」とまで言ったそうな)

 

州議選では独立派が過半数の議席を占めたけれどそれでも第一党の議席は予想より伸びなかった、と昨年の秋ニュースで読んだのを風になびく旗を眺めながら思い出していた。だいいちスペイン政府が認めていないかぎりは、独立を問う住民投票がすぐに出来るかといえばそうでもないんだろう。一部の旗には“CATALUNYA nou estat d’Europa”(カタルーニャ語で、「カタルーニャ、新しいヨーロッパの国」)と書いてあったけれど、本当にカタルーニャが新しい国になる日が近い将来来るんだろうか。たとえばわたしの子どもに、「まだスペインだったころのカタルーニャに行ったことがあるよ、ジローナにはたくさん旗が掲げられていたよ」なんて、いつか話したりするんだろうか。

 

 

あちこちのお店がシエスタに入ってしばらくした頃、朝早くからいたジローナを離れ、フィゲラスという町に行ってみることにした。フィゲラスはジローナから電車でバルセロナとは逆方向、つまりフランス国境のほうへ30分ほど行ったところにある小さな町で、目的はダリ美術館。1年半前のスペイン旅行でずいぶんダリの作品を観て以来興味が湧き、行ってみたいと思っていたのだ。

 

 

 

広い館内の隅から隅まで、煙みたいにもくもくと広がるダリ・ワールド。シュルレアリスム代表のように扱われるダリだけれど、それ以前になんて言うか相当エキセントリックだ。こんなの夢に出てきたらまあうなされるだろう、と思うような作品がとにかくこれでもかと並んでいた(言い過ぎ?)

 

正直なところわたしはあの作品群をしっかりと噛み砕くことはできないけれど、それでもダリ自身が手がけた場所であれだけの数の作品を浴びるように観るのは、心躍る体験だった。こんなに多くの作品を観てここまで印象が変わらない画家も珍しい、と思う。奇才、という言葉がしっくりくる。ダリは本当にどこまでもダリだった。

 

 

 

そして思いがけず、1フロアを占めていた一連の作品に釘付けになった。海のような、宇宙のような、岩のような、人間のような。境界線があいまいなのに、たしかな手触りのある、ふしぎな絵ばかりだった。作者はダリではなく、アントニ・ピショット。生まれたときからダリに接し(両親がダリとは家族ぐるみの付き合いだったらしい)、その才能を認められ、ついにはダリと共にこのフィゲラスの美術館をつくりあげることになる芸術家。ここの館長でもある。

 

その静かで芯の強い作品たちを1枚1枚丁寧に観ていると、この美術館がぎりぎり正気の範疇に留まっているのは彼の協力があったからじゃないかしらと思えてきた(言い過ぎ?)。もっとこの人の作品を観てみたい、と思った。ここでピショットに出会えたのは、わたしにとっておおきな出来事だった。

 

 

 

フィゲラスを発ったのは、夕方5時過ぎ。窓のそとも電車のなかも傾いた陽で金色に染まっていた。

 

遠くに雪のある山の連なりをみつけ、あれはピレネーにちがいない絶対そうだ、とひとりで嬉しくなったりしたけれど、ほんとのところはどうなんだろう。なんとなく、まだちゃんと調べられずにいる。

25/01/2013

 

 

太陽と地中海とおおらかな家並みを求めて。

 

 

昨日本屋でぱらぱらとスペイン語のガイドブックを捲っていて、1枚の褪せた美しい写真に釘付けになった。ちいさく添えられていたSitgesという名前には見覚えがあった。海沿いの町だ。写真には海は写っていなくて、その町並みはいまにも両側の壁から表面がぽろぽろと剥がれ落ちてきそうだったけれど(敢えて歴史のある古い建物の写真を使ったにちがいない)、自信に似た感情がふつふつ湧いてきた。明日はここへ行こう、と思った。

 

 

 

シッチェス(Sitgesと書いてこう読む)はバルセロナから電車で30分ほどのところにあるちいさな町だった。ビーチのあるリゾートの町で、モデルニスモ建築の町で、60年代にヒッピー文化が栄えた町でもあるらしい。

 

駅前の案内所で地図をもらい、まずはまっすぐビーチへ向かう。並ぶ椰子の木の向こうに青い海が見えたときには、そう、これこれ、と大声をはりあげたい気持ちだった。そもそも旅行先にバルセロナを選んだのは、地中海が見たかったからなのだ。

 

 

 

椰子の木の下にあるベンチで、時間を忘れて地中海を眺め、波の音を聴き、太陽の光を浴びた。スウェーデンにはない眩しさに、ほとんど泣きだしそうだった。ひたすらにじいっとして、どれくらいあそこにいたんだろう。

 

雲ひとつない空に椰子の葉のふちが滲んで、放っておいたらすこしずつ溶けていきそうだった。

 

 

 

オフシーズンの観光地、それも海のそばの町が好きだ。夏のように鮮やかではないけれど、独特のさっぱりとした穏やかさがある、と思う。そして海はどの季節も、変わらず美しい。

 

 

飽きるまで海のそばで過ごしたあとは、旧市街の路地をゆっくりと、くまなく歩き回った。かすかな潮の香りと、やさしい色の家並み。どこかから聴こえてくるスペイン語は、音ひとつひとつが愉しい。

 

 

 

すてきな風景にたくさん出会ったけれど、ここへ来るきっかけになったあの美しい写真の場所はついに見つけられなかった。旧市街の路地はぜんぶ歩いたはずなのに、なんでだろ。なんだか化かされたような気分だったけれど、おかげでこんな一日を過ごせたわけだし、まあ、いいかな。

 

 

 

ベランダが好きで好きでどうしようもないので、気がついたらこんな写真ばかり撮ってた。

 

 

じゅうぶんにシッチェスの空気を吸って、夕方早い時間にはバルセロナへ戻った。やっぱり今回も見ておかねばとサグラダ・ファミリアに詣で、そこから歩いてカサ・バトリョへ。なんだかんだ言いつつ結局また、ガウディを巡っている。

 

また歩いてすこし遠くの行ってみたかったカフェへ行き、さらに歩いてホテルへ帰った。今回はあまり地下鉄を使わず、かなり距離があってもほとんど歩いて移動している。点だったものを繋ぐ作業。

 

 

ずっと終わらなければいいのにと、もう思いはじめている。

24/01/2013

 

1年半振りのバルセロナ。

 

誇らしげにカタルーニャの「国旗」を掲げた、植物でいっぱいのベランダをときどき見かける。

 

 

バルセロナへ来ることを決めたのは一昨日だった。唐突に4連休が降ってきて、ルンドから出たい、と航空券を探した。地中海に面したいくつかの行き先を検討して、いちばん安かったのがバルセロナへの便だった。

 

どこまでも消極的な逃避行だけど、まあいいじゃない。

 

 

 

空から見る、冬のデンマーク−スウェーデン国境は美しかった。飛行機が大きく向きを変えているあいだじゅうずっと窓にはりついて、水と雪と氷でつくられた模様を眺めていた。

 

 

前回ここに来たのは2011年の夏、妹とふたりでだった。スペインのみ10日くらいの旅行だったのだけどアンダルシアにいた日数が長かったので、バルセロナ滞在は実質1日半しかとれず、美術館とガウディ関係のところを必死に回っていたらあっという間。いまひとつ摑めないまま、わたしにとってのバルセロナはガウディ建築を擁する大都会というどこまでもステレオタイプな印象に落ち着いてしまった。

 

今回は、前回時間の都合で行けなかったところを埋め、バルセロナ像をすこしでもほぐして帰るのが目標。

 

 

 

そんなわけで、さっそく前回泣く泣くあきらめたカタルーニャ音楽堂へ。ここを設計したのはモデルニスモ建築家、リュイス・ドメネク・イ・モンタネー。バルセロナ建築学校でガウディを教え、政治家としても活躍した人。ガウディとは違って、生前すでに確固とした地位があった人。

 

一見クラシックだけれど、モザイクや彫刻、ステンドグラスなど細部をひとつひとつ見ていくと独特というか、けっこう奇抜だ。そのうえ尋常じゃない凝り方で、小さなモチーフひとつとっても何と言うかずしっと重い。モンタネーはカタルーニャの誇りになるようなものを作りたかったのだと聞いたけれど、どれほど入れ込んでいたのかは素人目にもとてもよくわかる。彼は細部のデザインもぜんぶ自分でやったらしい。

 

カタルーニャ音楽堂の建設は1908年。だけど100年以上が経った今でも、年間300回ほどもコンサートが行われているのだとか。ほんとうにバルセロナの、カタルーニャの人たちのための建物だ。

 

 

 

天井のステンドグラスは、太陽モチーフの部分が出張っていて帽子をひっくり返したみたいな変わった形(「太陽のしずく」と呼ばれているらしい)。その周りをぐるりと二重に女性たちが囲んでいる。

 

 

 

外の柱も、一本一本違う花のデザインだった。硝子にも薔薇があしらわれていてロマンチック。

 

 

バルセロナはエネルギーに溢れていて、そしてやっぱり都会だ。今はヨーロッパの大都市では高級ブランドからファストファッションまで同じ店ばかり見るけれど、昔はどうだったんだろ。たとえばZARAやH&Mが登場する前のバルセロナを見てみたいなあ、ZARAもH&Mも好きだけれど。

 

 

 

夜のバルセロナは、明かりで生まれた陰影で凄味を増す。お化けみたいな建物が並ぶ大通りをひとりで歩くのは、結構楽しいけれど、ときどき心細い。